聖書の読み方
【聖書を読む(学ぶ)姿勢】
私たちの聖書を学ぶ姿勢は、
聖書「から」ではなく、聖書「に」学び、
聖書「から」ではなく、聖書「を」理解し、
聖書「から」ではなく、聖書「が」教えていることを真っすぐに解釈する。
神さまの呼びかけを注視し、背景・文脈にそって理解します。また、神さまに対する人(民)の態度・姿勢に神さまがどのように応えられているかも併せて理解します。
それは、書簡の背景にある歴史、文化、文脈、記者の情況と書いた意図、直接聞いた会衆の情況、神さまのご意思。何より書簡の当時が最重要であり、一義的には、書かれた時代の神さまのご介入、著者と会衆の関係を注視しなければなりません。そして、現代に適用する際は、神さまと人や民との関係を中心に学びます。
そして、聖書記事のわからない事は最善を尽くし調査するが、「わからない」ところは「わからない」としておく。言及していないところを私的解釈するのは聖書記者の意図に反します。
聖書の素晴らしさを理解して頂き、一人でも多くの方が笑顔になれるよう心より願っております。
そこで、聖書の解釈にについて少し聖書を開いて、共に学びたいと思います。
聖書解釈について
イエス・キリストは、当時の弟子たちに「あなたがたは、地の塩である。」また、「あなたがたは、世の光である。」と語りかけました。(マタイによる福音書5章13-16節)多くのクリスチャンが知っている山上の垂訓の一文です。
では、「地の塩」「世の光」とは何でしょうか。
「地の塩」は、当時、ローマ帝国支配下のイスラエルの中にあって、神の国民による社会の防腐剤としての役割です。「塩」は世の中において役に立つ比喩として用いられています。そして、「世の光」は、主イエス・キリストご自身の称号(ヨハネによる福音書8章12節、9章5節、12章46節)です。聖書は、神さまが光そのものであることを示し(ヨハネの第一の手紙1章5節)、イエス様は光である神さまを啓示するために「世の光」として来られたと書かれています。そして、イエス・キリストの「光」のもとにくる者は「世の光」(マタイによる福音書5章14節、エペソ人への手紙5章8節)と伝えています。「光」は「罪」に対するものでもあります。(ローマ人への手紙13章12節、ヨハネの第一の手紙1章6-7節、2章9-11節)
私たち、主イエス・キリストを信じる者は、自身の価値観、社会の価値観の中で葛藤して生きているのではないでしょうか。そこに信仰をもって聖書を読めば、聖書の価値観が加わります。一歩、社会に出れば社会の価値観、自分のやりたい事があれば、自身の価値観、信仰心をもって聖書を読むと聖書の価値観。大きく分けて3つの価値観を天秤にかけて、どちらが得かと考えてしまっているかもしれません。
「地の塩」「世の光」として生きる私たちの信仰のベースはもちろん聖書です。聖書が無ければ、どのように神の国民として生活をすれば良いか解りません。また、人生の岐路に立った時や判断、決断を要する時、聖書の言葉が基準となります。
《あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。》(詩篇119篇105節)と、聖書は言っています。
聖書を読む前提(心構え)
そこで、私たちは、メッセージを用意し話すとき以下の聖句を念頭に置いています。
《聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。》(ペテロの第二の手紙1章20-21節)
20節に《聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。》と書かれています。
書簡に書かれた当時の著者の目的や背景、文脈は絶対なのです。一義的には、当時の著者と書き記された相手が対象になります。それを失念し聖書の一部分を切り取って語ると著者の目的から外れてしまいます。結果的に、書簡の本旨やねらいを語らず、聖書を使って、自分の考えを語ることになります。
例えば、
マタイによる福音書28章16-20節を読んでみましょう。
《16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。》
16-17節を読むと十一人の弟子たちが対象です。18節では、イエス様が彼ら(弟子たち)に近づいて《「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。》と言われています。この箇所は有名ですね。この聖句やマルコによる福音書16章15節などを引用して、イエス様による「宣教の大命令」や「大宣教命令」と言われています。しかし、聖書のどこにも「大」命令と言う言葉はありません。イエス様が命令された相手は十一人の弟子たちです。この箇所だけを切り取って、メッセージで「あなた方も宣教の大命令の対象です。ですから、弟子たちのした通り社会で、学校で、会社で伝道しなさい。」と言うのは、少し乱暴な解釈と言えます。
(注:The Great Commission(大宣教命令)を誰が言い出したのかは不明です。近代に入ってから使われるようになったと言われています。)
社会で伝道者として仕事に就くことが伝道・宣教ではありません。教会の中で、教役者として働く者だけが伝道の働きをしているのではありません。
教会(信仰者お一人お一人)がご聖霊に導かれて、その地域で礼拝することが、現代の私たちの務めであり、そのことが伝道・宣教となっていきます。
そして、ひとり一人へお働きになられるご聖霊の導きによって私たちの奉仕の役割が与えられるのです。結論的にクリスチャンは、置かれた社会で忠実に働き、日曜日に教会へ行って兄弟姉妹と共に礼拝するだけで伝道・宣教をしていることになっていくのです。
テモテへの第二の手紙3章16節《聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。》とパウロはテモテへ語っていますが、《神の霊感を受けて書かれたもの》と書かれているということは、ご聖霊が著者へ直接働きかけて書かれたと言うことです。
私たちの信仰のベースとなる聖書の読み方を間違えると信仰も間違った方に向かいます。時には、聖書の文言をとって人を裁く道具になりかねません。
当時、イエス様は指摘しました《人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる》(マタイ15章9節)と。
私たちの礼拝
私たちの礼拝は、イエス様がサマリヤ人の女性に語られた《しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。》(ヨハネ4章23-24節)また、パウロがローマ人への手紙12章1節で語っている《兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。》と書かれていることを心に留めている教会です。
ですから、細心の注意を以ってメッセージを用意しお話します。
ここまで、お読み下さりありがとうございます。
サマリヤ人の女性が登場してきましたので、ともにこの出来事を考えて終わりたいと思います。
サマリヤ人の女性の話は、4章1節から30節までです。そして、39節~42節が結論になっています。
ヨハネは、場所、時間、情況を書いています。そして、イエス様とサマリヤ人の女性のやりとりがあります。
イエス様は、当時ユダヤ人が嫌っていたサマリヤ人の女性に《イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」》(ヨハネによる福音書4章13-14節)と言われています。
何やら事情のある女性が真昼の時間帯に、生活の中心の一つである共同の井戸の水を汲みに行くという日常の暮らしにイエス様は登場されています。著者ヨハネは何を伝えたかったのでしょうか。ここで意図して、話しの焦点が物質的な水から、霊的(神さまと人との関係)に移っています。イエス・キリストを父なる神の御子として信仰をもつならば、霊的真理を教える”命の水=聖霊”が、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがる。と言うことです。それから、個人的なカウンセリングに入り、心の渇きが生ける水によって潤され、泉となって多くのサマリヤ人たちはイエス様のことばによって信じています。個人的な心と生活の問題が取り上げられ、最後にその人が住む町の住民までが救われて信じていくという記事の流れ。
どうでしょうか。私たちがイエス様を信じ、問題が解決されたなら喜びとなり、人々へ証ししていくのです。それを聞いた人たちが、問題を抱えていたなら、ご聖霊の働きによって渇きが潤い、泉となって水が流れるのではないでしょうか。