宣教事業

この伝道のきっかけ

 このニホン・ネットキリスト教会スタッフである私は、キリスト教会が母体の幼稚園に通っていました。それから日曜学校に通い、キリスト教の信仰を持つようになりました。
 家庭の事情で引越しが多く、その度に近所の教会を探し日曜日になると教会へ通っていました。社会人になり「ふと気づく」ことがありました。それは、日曜学校に通っていた友人・知人、また、礼拝に集っていた兄姉が教会に集わなくなっていることを。「なぜだろう」って?

 そこで思い出した聖書の言葉に、イエス・キリストの種まきのたとえ話があります。ルカによる福音書8章11-15に《この譬はこういう意味である。種は神の言である。道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。》とあります。15節の《良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。》をよく考えてみました。《正しい良い心》・・・なかなか難しい話です。

 日本のことわざに『子を持って知る親の恩』ではないですが、聖書を読まないと万物を創造され、すべての命の源である神さまの恩はわかりません。まして聖書は、分厚い本です。2千年以上前のイスラエルの話しですから、時代背景や文化もチンプンカンプン。さらに言えば、現代は、人を騙す稼業が多くなっている時代ですから『人を見たら泥棒と思え』と周囲から言われると、教会の先生だからと言って素直に信じられません。信じる基準がないと言ったらいいのかもしれません。

 聖書を読むとイエス・キリストでさえ悪魔から誘惑にあっているのです。また、この世には魅力いっぱいのモノやコトに溢れ、次から次へと新しい価値が創造され好奇心がくすぐられます。若い時は、自分の内から湧いて来る好奇心に揺れ、責任世代になると社会の価値観に合わし、高齢になると自分自身の考えに固執してしまいます。

 テモテへの第二の手紙4章10節では《デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、》と書かれています。パウロの弟子であっても、この世を愛して離れてしまうのです。

 考えてみれば、人は過ちを犯しますし、意志も弱い存在です。十二弟子のペテロ然り、立派とされるイスラエルの2代目の王ダビデも大きな罪を行い、何度も失敗しているのです。
 また教会が、人のケアに不十分なケースもあると思います。
 それは、牧師・伝道師も含め教会員も『人』です。すべてにおいて未熟な者の集まりです。聖書の知識や知恵、信仰の深さ、寛容、忍耐、優しさ、配慮、礼儀・礼節がすべて備わっているわけではありません。
 言い難いことですが、無意識に聖書を使って人をさばき、奉仕においては、結果的に無理強いと思われる印象を抱かれた方もおられると思います。牧師や伝道師をはじめ教会員同士、心配りはしつつもケアが行き届いていないのが現状だと思います。

 話しの流れから少し外れますが、パウロがコリントの教会で分派が起きていることを聞いて次のような諭しを与えています。コリント人への第一の手紙3章6-7節《わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。》とあります。教会から一時的に離れ、困難や試練に遭って、人生を考えさせられる時、自分自身の存在を考えさせられる時、チャンス(機会)なんだと。《大事なのは、成長させて下さる神のみである。》のですから。

 おおよそ、人が教会から離れるのは、聖書の神さまが語る言葉より、自分自身の価値基準により、世の中の魅力的な方向へ向いてしまうからです。アダムとイブも神さまの言われたことを守らずにヘビの誘惑に負けてしまいました。

 私も何度も誘惑に負けて教会から離れた事があります。そうです。私も教会から離れてしまった一人になったことがあるのです。さらに言えば、神さまから離れてしまった一人なのです。神さまから離れた時のもがき苦しみはかなりのものです。幾度も自分自身で立ち上がろうとしました。バリバリ仕事をし、旅行にでかけ、多くの人と交流しイベントやパーティーに行き、また、主催もしました。でも、虚しさしか残りませんでした。周囲の友人・知人から羨ましがられても、私の心を満たすモノはありませんでした。虚しさのあまり教会に戻り、礼拝に出席していても心は上の空。神さまへ心が向いていなかったのです。
 ある事がきっかけで自分の心を点検し、神さまへ心が向いていないと気づき、悔い改めました。
 自分の心の思うままに生きても答えはありません。本当の信仰の大切さと言うのでしょうか。言い換えれば、世の中で生きるための信じる基準を持つ軸と言ったらよいでしょうか。教会から離れて、神さまに背を向け虚しさを覚え、かえってその事がアイデンティティの確立に役立ちました。神さまが見守り、導いて下さったのだと理解しました。ルカによる福音書15章11-32節の放蕩息子に出てくる弟だと気づいた瞬間です。

 私は、このような信仰体験をし、何かお役に立ちたいと祈り、仲間に声をかけて集まってもらいました。
そして、私たちは、何かしらの理由で教会から離れてしまい、行き場を失っている兄弟姉妹や希望を失っている現役世代へアプローチする目的で集まりました。

・教会に行きたいけれど適度に距離をとってほしいなぁと思っている方
・リアルの教会に出席するのは苦手
・コミュニケーションをとるのはチョッと・・・
・忙しいからネットで気軽に参加出来たらいいなぁ~
 という方は “リモート礼拝” は、ピッタリです。

 ざっくばらんな会話ができる、お気軽なネット教会です。ネットさえ繋がれば日本のどこに居ても礼拝に出席できるのです。そして、スタッフは全員、会社員経験者ならびに会社員です。みんな、それなりに困難や試練を経験している仲間です。
 どうぞ、お気軽に問合せください。

《神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。》ヨハネによる福音書3章16-17節

《わたしは道であり、真理であり、命である。》ヨハネによる福音書14章6節

スタッフ代表
戀田寛正