聖書と信仰生活
ヨハネの第三の手紙を見ると、ガイオが巡回伝道者を受け入れ、その愛あるガイオのもてなしが、巡回伝道者から証しされて、伝道者の同労者(宣教の働きをする者)と言われていることが分かります。
私たちは、次のように聖書から教えられています。
ヨハネによる福音書13章34-35節《わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。》
直接的には、弟子たちに語られていますが、兄弟同士愛し合えば、「あの人はイエス様の弟子だ」とすべての人、周りの未信者の人も認めるようになると言われています。まだ、イエス様を知らない人が、「ああ、あの人はイエス様の弟子だな」と認める。(現代では、クリスチャンだと見られるということですね)それは、神さまの愛が、兄弟姉妹に対して、実践されているということを認める、ということ。
そして神さまは、その同じ愛で、あなたの周りの人たち、まだ信じていない隣人を愛しなさいとも言われています。
その良い例が、先のガイオでしょう。宣教師の同労者としての働き、宣教することと同じ働きになるということが言われているのです。
ガイオは、巡回伝道者だけでなく、近隣の住民にも同じ愛で接していたのでしょう。そして、「あのガイオさんが世話している巡回伝道者の話を聞いてみよう」「ガイオさんの教会に行ってみよう」ということで、救われた人もいたのでしょう。ガイオのしたことは、言葉ではない、愛という行為であらわす宣教ということになると言えます。
また、ヨハネはこうも言っています。
ヨハネの第二の手紙6節《父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。》愛することは、神の戒めに従うことだと。
神さまの戒めに従い、信仰生活をすることが愛することであり、その愛で兄弟姉妹を愛する場として、教会が与えられています。そして、その愛することが、社会の人々にキリストを指し示すことになると、聖書のみ言葉は教えます。
私たちの願い
私たちは、クリスチャンの日常生活が健やかであり、クリスチャンとして困難、試練を共に祈りながら解決をしたいと願う教会です。
また、現役世代・責任世代の方々が、人生の歩みの途中で社会の様々な価値観に影響を受けています。社会の多種多様な価値観の影響を受けて悩み苦しんでいる方々が、日々の暮らしを健やかにするには、聖書の学びがとても有効です。
聖書の書かれていることを信じる事で、内面が生き活きしポジティブでアクティブな人格へと成長するようにお手伝いする教会です。
悩みは人生の歩みでは必然ではないでしょうか。つまり、困難や試練を通して私たちは成長するのではないでしょうか。しかし、頼るところを間違えれば、なかなか困難から抜け出せません。時間が掛かるだけならよいのですが、悪化させ人生を狂わせる可能性さえあります。困難や試練は、正しい認識、正しい処置によって解決に向かいます。聖書は古代の書物ですが、人類の普遍的なところは変わりません。便利な生活が発達した現代であっても、人そのものは変わっていません。
聖書は生きていくうえで、とても有意義な書物です。
困難、試練を解決するキーワードは「愛」です。
古代と現代に共通する「愛」は感情ではありません。愛は態度と姿勢です。聖書は「愛」を教えています。
《あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。》レビ記19章18節
《憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう。》箴言10章12節
《愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。》ヨハネの第一の手紙4章18-21節
古代でも現代でも、すべてのコミュニケーションに「愛」は必須ですね。
あなたとお会いする日を心待ちにしています。
スタッフ一同