ショートメッセージ【マルコの福音書14章_4】
マルコによる福音書14章42-52節
(サタンに負けないように)
1、ユダの裏切り
2、ユダの接吻
3、ユダから学ぶ
1、ユダの裏切り
マルコによる福音書14章42節を読みます。
14:42 立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。
イエス様は、ゲツセマネでの祈りの戦いに勝利され、再び、以前と同じように落ち着きと確信をもって、十字架へと向かわれる姿を取り戻されていました。
マルコによる福音書14章43節を読みます。
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
そこに現れたのは、十二弟子のひとりであるユダでした。
ユダは、祭司長、律法学者、長老たちから送られた、剣と棒を手にした群衆を引き連れて、イエス様のもとへ近づいてきたのです。
しかし、この場面において、イエス様には少しの迷いも、恐れも見られません。
すでに神さまの御心にすべてをゆだね、十字架の道をまっすぐに見据えておられたイエス様は、堂々と、そして静かに、この出来事を受けとめておられました。
それは、祈りによって父なる神さまの御心にしっかりと立ち、神さまのご計画の中を歩む者の姿でした。神さまのご計画の中を歩む者の姿でした。
マルコによる福音書14章44-45節を読みます。
14:44 イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。
14:45 彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
ここで、ユダはイエス様に接吻をします。
当時、接吻は弟子が師に対して示す、最大の敬意と親愛のしるしでした。しかし、その行為が、イエス様を引き渡すための合図として用いられたのです。
マルコによる福音書14章46-52節を読みます。
14:46 人々はイエスに手をかけてつかまえた。
14:47 すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。
14:48 イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。
14:49 わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。
14:50 弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
14:51 ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、
14:52 その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
イエス様はここで、人々に対して、これは偶然の出来事ではなく、聖書に記された神さまのご計画が成就するための出来事であることを示されました。
この言葉は、群衆に向けられたものであると同時に、ユダに対しても語られていたと考えられます。
それは、「あなたがしていることはすべて分かっている。しかし、これは神さまのご計画の中にあることだ」という厳しい現実の提示であると同時に、「それでも、今からでも立ち帰ることはできる。あなたは神さまに背いたまま計画を進める者になるのか、それとも、悔い改めて再び神さまに仕える弟子として立ち返るのか」という、最後の招きでもありました。
そこには、ユダを見捨てないイエス様の愛と導きがありました。
一方、他の弟子たちは、イエス様を守ろうとして行動します。
一人は剣を抜き、大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落としました。
しかし、イエス様ご自身は、神さまの力によって抵抗されることもなく、自ら捕えられる道を選ばれました。
その姿を目の当たりにして、弟子たちは混乱します。なぜイエス様が、自ら捕まるようにされるのか理解できなかったのです。
恐れと混乱に包まれた弟子たちは、ついにイエス様を見捨てて逃げ去ってしまいました。
こうして、イエス様は、ただひとりで十字架への道を歩まれることになったのです。
2、ユダの接吻
ユダは、なぜ接吻を合図にしたのでしょうか。
すでにイエス様から裏切り者であることを見抜かれていたのですから、ここで「まだ弟子です」という振りをする必要はなかったように思われます。
接吻などせず、「この人がそうだ。この人を捕えよ」と指し示すだけで十分だったはずです。たとえ、自分の裏切りを他の弟子たちに知られたくなかったとしても、すぐに明らかになるのですから、わざわざ接吻という形で装う必要はなかったでしょう。
考えられるのは、ユダがイエス様の神の御力を身近で見聞きし、その力をよく知っていたからこそ、油断させ、混乱させ、確実に捕えるためにこの方法を選んだ、ということでしょう。
イエス様に抵抗の隙を与えず、逃れる余地をなくすために、親愛のしるしである接吻を用いたのだと考えられます。
敬愛の行為を裏切りの合図へと変えてしまう、このユダの行動の背後には、狡猾で、目的のためには手段を選ばないサタンの存在が見えてきます。
ルカによる福音書には、ユダにサタンが入ったとはっきり記されています《そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。》(ルカによる福音書22章3節)。
サタンは、実は同じ弟子であるペテロにも影響を及ぼしたことがありました。
マタイによる福音書16章23節には、ペテロはイエス様から、《「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。》と厳しく戒められています。
しかしペテロは、そのとき自分の思いに固執することなく、イエス様に心を向け、イエス様にすがりました。
その結果、サタンに支配され続けることはありませんでした。
一方、ユダは違いました。
サタンの思いのままに流され、イエス様に背を向け、サタンの誘いに全面的に乗ってしまい、ついにはイエス様を裏切る者となったのです。
もしユダが最後の最後で、「イエス様」と叫び、イエス様にすがっていたなら、サタンの支配から逃れることはできたはずです。
イエス様は、どこまでも愛をもって人を追い求めてくださるお方だからです。
私たちは、イエス様に立ち帰るのに「遅すぎる」ということは決してない、ということをここから教えられます。
自分の弱さを自覚し、その都度イエス様にすがりながら歩むなら、サタンに負けることなく、神さまの導きの中を歩み続けることができるのです。
3、ユダから学ぶ
信仰者に対して働くサタンの誘惑に、どのように向き合えばよいのでしょうか。
ユダの姿から、サタンに負けないために、私たちはいつでも自分の弱さを自覚し、イエス様にしがみついて歩む必要があることを教えられます。では、そのために、どのような歩みが求められているのでしょうか。
前回見た箇所をもう一度読みます。マルコによる福音書14章38節
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
ここで《心》と訳されている言葉は、「霊」を意味していました。
また「肉体」とは、単なる肉のからだではなく、人としての弱さを指しています。
人には誰にでも弱さがあります。そしてサタンは、その弱さにつけ込んで誘惑してきます。
しかし同時に、人にはサタンが触れることのできない「霊」の部分があることも、私たちは学びました。
だからこそ、霊の目を覚まして祈ることが大切なのです。
神さまを意識し、ご聖霊の助けをいただき、いつもともにいて支えてくださっているイエス様を見上げながら祈ることです。
霊で祈り、神さまとの霊と霊との交わりに立つとき、そこにサタンは手を出すことができません。
このことを、エペソ人への手紙も教えています。エペソ人への手紙6章18節を読みます。
6:18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
《絶えず祈と願いをし》とは、願いごとを祈ってよいということです。
また《うむことがなく》とは、いやになったり、飽きたりせずに祈り続ける、という意味です。
祈り続ける信仰者に、サタンの誘惑は力を持ちません。
しかし、私たちがこの世に生きている限り、サタンの誘惑そのものがなくなることはありません。
だからこそ、霊の目を覚まし続け、祈り続ける歩みが大切なのです。
その歩みの中で、私たちはサタンに負けることなく、イエス様にしがみついて歩む者とされていくのです。
人としての弱さをもって祈られた、イエス様のゲツセマネでの祈りこそ、私たちにとっての大切なお手本です。
イエス様は、まずご自身の正直な思いをもって祈り始められました。しかしその祈りの中で、最後には「自分の思いではなく、神さまのお心が成ることこそが最善である」というところへと導かれていかれました。
これは、すべてを神さまにゆだね切っている状態です。
サタンは、私たちの「自分の思い」に働きかけ、そこから誘惑を仕掛けてきます。しかし、神さまのお心を自分の思いとして受けとめることができるなら、サタンはもはや手を出すことができなくなります。
後にパウロは、これを《信仰のたて》と呼びましたが、それは特別な力ではなく、神さまの前にとどまり続ける姿勢そのものだったのです。
神さまは、今回の聖書箇所を通して、私たちがユダのようにならないことを願っておられます。ユダを反面教師として、自分の思い込みや判断に頼るのではなく、ご聖霊によって祈り、「御心のままになさってください」「神さまのご計画の中を歩ませてください」と求め続ける歩みへと導いておられるのです。
そのように祈りつつ歩むとき、私たちはサタンに負けることなく、神さまの御手の中で守られ、導かれていくのです。
2026年10月4日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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