ショートメッセージ【マルコの福音書15章_3】
マルコによる福音書15章33-41節
(霊で受ける十字架のみわざ)
1、苦しまれた父なる神さま
2、隔ての幕の消失
3、霊で受けとめた百卒長
1、苦しまれた父なる神さま
マルコによる福音書15章33-37節を読みます。
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。
15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。
15:36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。
15:37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
イエス様は、十字架によって、精神的にも肉体的にも、想像を絶する苦しみを受けられました。しかし、それ以上に、イエス様を死ぬほど苦しめたものがありました。それは、父なる神さまとの親子の関係が断たれたことでした。
愛し合い、心一つであった父と子の関係は引き裂かれ、ここでは、正しくさばかれる神さまと、全人類の罪を一身に負った大罪人として裁かれる者とに分かたれていました。この親子の断絶は、まさに死ぬほどの悲しみであったに違いありません。
しかし、この耐えがたい悲しみさえも、イエス様はゲッセマネの祈りにおいて、すでに神さまのお心にゆだね、すべてをお任せして受け取っておられました。
それでは、なぜここで、イエス様は《「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」》と叫ばれたのでしょうか。そのことを、もう一度、聖書の記述から考えてみたいと思います。15章33節です。
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。
昼の十二時、真昼のはずの時に、あたりは突然暗くなり、その暗闇が三時ごろまで続いたと記されています。日蝕ではないかと考える人もいます。しかし、この天地を造られ、すべてを保ち、支配しておられるのは神さまです。日蝕さえも、そのご支配のもとにあります。
そう考えるなら、この三時間にわたる暗闇は、偶然起こった現象ではなく、神さまが明確な意図をもってなされた出来事であったと受け取るほうが自然でしょう。
《「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。…」》(マルコ14章34節)と、父との関係の断絶を苦しまれたイエス様を、父なる神さまが、何の痛みもなく見過ごされるはずがありません。この断絶は、子なるイエス様と一体であられた父なる神さまにとっても、同じく死ぬほどに悲しい苦しみであったはずです。
神さまは、そのご自身の苦しみ、その深い悲しみを、三時間の暗闇という形で、イエス様にお示しになったのではないでしょうか。
そのことを受け止められたイエス様が、《「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」》と叫ばれたのです。
それは、父なる神さまの苦しみを理解し、その父を思っての叫びであったと、私は理解し、信じています。
父なる神さまと子なるイエス様が、ともに「死ぬほどの悲しみ」をもって苦しみ抜かれた、その出来事によって、私たちに示された深い愛があります。そして、その愛の中で、イエス様の十字架による罪からの救いが、私たちに与えられました。
この霊的な事実を、私たちは心に、そしてその奥にある霊に、深く刻みたいと思わされるのです。
2、隔ての幕の消失
マルコによる福音書15章38節を読みます。
15:38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
この出来事は、後に神殿でこの事実を目撃した祭司のだれかによって伝えられ、それをマルコが書き記したのであろうと考えられます。
この幕は、神殿の聖所と至聖所とを仕切る幕でした。至聖所には、神さまの臨在を示す契約の箱が置かれており、そこに近づくことが許されていたのは、年に一度、大祭司ただ一人だけでした。
しかし、その隔ての幕が引き裂かれたということは、もはや限られた人だけでなく、だれでもイエス様を通して、神さまの御前に近づくことができるようになったことを示しています。
マルコは、十字架の場面から離れた神殿で起きたこの出来事を、あえて十字架の記事の中に書き加えています。それによって、御子イエス様の十字架が、神さまと人との関係を根本から変える出来事であったこと、その意味の重大さを伝えようとしているのです。
ここで、ヘブル人への手紙10章19-20節を読みます。
10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
この箇所は、イエス様が十字架の上で血を流してくださったことによって、神殿の幕が裂かれ、イエス様を通して、私たちが神さまと結ばれる道が開かれたことを語っています。
それは、これまでの神殿礼拝では考えられなかった、神さまに近づくためのまったく新しい道でした。そして、その恵みがどれほど大きなものであるかを示しています。
この出来事において、私たち人の側からの働きかけや努力は、いっさいありませんでした。父なる神さまと子なるイエス様とが、「死ぬほどの悲しみ」をもって苦しみを通られたことによって、神さまと人とを隔てていた壁が取り除かれたのです。
それによって、父なる神さまと子なるイエス様だけでなく、私たちもまた、イエス様を通して神さまと一つとされる道が備えられました。その大いなる恵みが、この隔ての幕の消失によって、はっきりと示されているのです。
3、霊で受けとめた百卒長
マルコによる福音書15章39-41節読みます。
15:39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
15:40 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。
15:41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
この百卒長(百人隊長)の言葉は、イエス様が十字架上で息を引き取られるまでの一部始終を見ていた、百卒長の告白です。彼は、この十字架刑の責任者でした。その立場にある彼が、「この方は偽物ではなかった。本物の神の子であった」と言ったのです。
百卒長の立場を考えれば、このような発言は本来、口にしてはならないものでした。十字架刑の責任者が、処刑されたイエス様を肯定する言葉を発すれば、自分の立場が危うくなることは分かっていたはずです。それでも彼は、言わずにはいられなかったのでしょう。
百卒長は、日中に突然起こった三時間の暗やみを経験し、十字架にかけられたイエス様の姿を間近で見続けていました。その一連の出来事を、彼は理屈や知識ではなく、自分の霊で受けとめたと考えられます。
人は神さまに造られ、一人一人、心の奥に霊が与えられています。しかし罪のために、その霊は本来の働きを十分に果たせない状態にあります。それでも、人が神さまご自身や神さまのことばに直接触れ、霊的事実と向き合うとき、神さまと一対一で向き合う中で、その霊は少しずつ働き始めます。サマリヤの女性がそうであったようにです。
百卒長は、父なる神さまと子なるイエス様が、ともに「死ぬほどの悲しみ」を通して全人類に示された愛、そして十字架による御業と、それに伴って起こった出来事を前にして、神さまがイエス様を神の子として認めておられるとしか思えなかったのです。そして、《「まことに、この人は神の子であった」》と告白したのでしょう。
マルコはここで、百卒長の告白に続けて、遠くからイエス様を見守っていた女たちの存在を書き記しています。
彼女たちは、イエス様がガリラヤにおられた時から従い続け、仕えてきた弟子たちでした。
男の弟子たちが恐れて姿を消してしまった中で、彼女たちは十字架の場にとどまり続けました。声高く何かを主張したわけでもなく、目立つ行動を取ったわけでもありません。ただ、最後までイエス様から離れず、その苦しみと死を見届けていたのです。
ここには、霊で受けとめる姿の、もう一つの形が示されています。
百卒長は言葉によって告白しました。一方で、女たちは沈黙の中で、忠実にそこに立ち続けました。
マルコは、異邦人の百卒長と、名もない女弟子たちの両方を通して、十字架の前に立つ人間の正しい姿を描いているのです。
ここまで、私たちは三つのことを見てきました。
まず、日中に起こった三時間の暗やみは、父なる神さまと御子イエス様との断絶に伴う、深い悲しみと苦しみのあらわれであること。
次に、イエス様の十字架は、神さまと人との間にあった隔ての幕を取り去り、私たちがイエス様にあって大胆に神さまの御前に立つ道を開いたこと。
そして最後に、その意味を悟り、告白したローマの百卒長の姿です。彼は、自分の霊で、神さまがなされた霊的事実を受けとめることができたのです。
では、マルコはこの出来事を通して、私たちに何を示そうとしているのでしょうか。
それは、私たちも百卒長のように、霊で受けとめるように、ということです。そして、日中の暗やみの出来事を通して示された、父なる神さまの大きく深い愛とあわれみを、受けとめるようにという招きです。
父なる神さまは、この私のために、御子イエス様に代えがたいほどの、死ぬほどの苦しみを通られました。その苦しみを、御子イエス様ご自身も引き受けてくださいました。それほどまでに、私は愛されているのです。
この神さまのお心こそが、私たちにとって、なくてはならない最も大切なものなのだと受けとめるように、私たちは導かれています。
ヨハネによる福音書3章16節を読みます。
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ここで言われている《この世》とは、この世に生きる私たち一人一人のことです。
「私が、私が」と自分の目線で見るのではなく、「神さまがこの私を愛してくださっている」という絶対的なご存在の霊的事実を、受けとめましょう。
すでにそれを受けとめている人は、日々起こる出来事の一つひとつに、神さまが関わってくださっていることを覚えましょう。父なる神さまと御子イエス様が、ともに死ぬほどの悲しみを通ってまで示してくださったこの愛、その愛の中で、天にある恵みが注がれ続けています。
そしてその恵みは、私たちが御国に入る時まで、責任をもって導くという神さまの約束に基づいています。
そのような愛のまなざしで見てくださっている神さまの目線を覚えつつ、父なる神さまと御子イエス様の愛の中を歩んでいることを、いつも意識しながら歩んでまいりましょう。
2026年11月8日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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