ショートメッセージ【マルコの福音書14章_2】
マルコによる福音書14章12-31節
(信仰者の弱さを受け止めてくださる神さま)
1、変化を恐れた弟子たち
2、裏切ると言われた弟子
3、信仰の強さを主張した弟子たち
1、変化を恐れた弟子たち
マルコによる福音書14章12-16節
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。
14:13 そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。
14:14 そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。
14:15 するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。
14:16 弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。
除酵祭は、「種なしパンの祭り」とも呼ばれます。
もともと、除酵祭と過越の祭りは別々の祭りでしたが、14章1節にあるように、この時代には一続きの祭りとして行われていました。
過越の祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、神さまの民として生きるようになったことを記念し、祝う大切な祭りです。
この時の弟子たちは、イエス様から、捕えられ、十字架にかけられ、そして後によみがえる、ということを何度も聞かされていました。しかし彼らは、それを真剣に受けとめず、イエス様が弱気なことを言っておられるだけだ、と聞き流していたのです。
十字架や死について考えること自体、受け入れたくなかったのでしょう。
13節から16節で、イエス様は、ご自身が先のことを完全に見通しておられるお方であることを、弟子たちが実際に見て、体験できるようにされました。
弟子たちは、イエス様の言葉がそのとおりになったことを通して、十字架についても、イエス様の語られたとおりになるのだと悟る機会を与えられていたのです。
しかし、弟子たちは、その出来事に驚き、神さまの偉大さを心からほめたたえたでしょうか。
そうではありませんでした。
彼らの霊の目、霊的な感度は鈍っていました。
神さまをあがめ、神さまの前に低くへりくだって立つべき立ち位置から、少しずれてしまっていたのです。
それは、弟子たちが、この先起こる変化を受けとめようとせず、変化そのものから目をそむけようとする、肉の思い、すなわち神さまを抜きにした思いに覆われていたからでした。
人は、自分にとって好ましいと思える変化は望みます。
しかし、自分にとって避けたい変化、受け入れたくない変化は、できるだけ起こってほしくないと願います。
けれども、神さまのご計画は、私たちの思いをはるかに超え、私たちの理解の及ばないところにあります。そのため神さまは、私たちを、自分の思いではなく、神さまの思いへと変えられていくように導かれます。
そして神さまは、その変化が、たとえ私たちにとって良いとは思えないものであっても、逃げずに、正面から受けとめていくことを、私たちに望んでおられるのです。
2、裏切ると言われた弟子
マルコによる福音書14章17-25節
14:17 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。
14:18 そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。
14:19 弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
14:20 イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。
14:21 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
14:23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
14:24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
14:25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
夕方になり、イエス様は十二弟子とともに席に着き、食事を始められました。
その食事の最中に、イエス様は、弟子たちの中の一人がご自分を裏切ろうとしている、と語られました。
この言葉を聞いたとき、弟子たちは皆、強い不安を覚え、「まさか、わたしではないでしょう」と、一人一人が口にしました。しかし、その中でユダだけは、他の弟子たちとは違う思いで、この言葉を聞いたことでしょう。
なぜなら彼はすでに、祭司長たちのもとに行き、イエス様を引き渡すための話し合いを進めていたからです。
さらにイエス様は、《十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである》と言われました。
それは、裏切る者が、遠くにいる誰かではなく、イエス様と最も親しく、同じ食卓を囲んでいる者であることを示す言葉でした。
しかし、この言葉を聞いても、他の弟子たちは誰がその人なのかに気づくことはありませんでした。「もし自分だったらどうしよう」という思いで心がいっぱいになり、周囲を見る余裕がなかったのかもしれません。
あるいは、イエス様が特定の相手にだけ伝わるように語られたのかもしれません。
いずれにしても、この時点で、弟子たちはまだ、誰がイエス様を裏切ろうとしているのかを理解してはいなかったのです。
ここで、ルカによる福音書22章23節を読みます。
22:23 弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。
このように、弟子たちは互いに話し合いましたが、誰一人として騒ぎ立てたり、ユダを問い詰めたり、縛り上げて連れて行こうとしたりする者はいませんでした。
ここでもイエス様は、ユダに対して、自ら悔い改め、イエス様のもとに立ち帰るための機会を与えておられたのです。
また、イエス様が「裏切る者が出る」とあらかじめ語られたのは、弟子たちが、自分たちの信仰が神さまからの恵みであり、神さまが与えてくださったものであると理解するためでもありました。
ユダの裏切りや、これから起こる十字架の出来事に直面しても、弟子たちが信仰から離れてしまわないようにするためだったのです。
マルコによる福音書14章22節からの箇所で、イエス様は、過越の食事に新しい意味を与えられました。
パンは、十字架にかかられるイエス様ご自身の体を表し、ぶどう液は、十字架で流されるイエス様ご自身の血を象徴しています。
私たちは、罪の身代わりとして十字架で犠牲となられたイエス様のお体と、そのいのちを覚えつつ、割かれたパンをいただくことで、与えられた罪の赦しと、その大きな恵みを思い起こします。
また、罪の赦しのために流された血は、神さまが私たちを「わたしの民」、すなわち神の民としてくださる新しい契約を意味しています。
それは、旧約において神さまと神の民イスラエルの間に結ばれた契約を基準に考えるなら、再び結ばれた契約とも言えるでしょう。
この新しい契約によって、私たちはキリストの花嫁とされ、イエス様のお体である教会の一部とされます。
そのことを、ぶどう液を飲むという行為を通して表しているのです。
信仰は、そのきっかけも、選び取る自由意志も、信じる心も、信仰そのものも、そして御言葉さえも、すべて神さまの側から与えられているものです。
神さまが、すべてを備え、成してくださっています。
私たちは、それを素直に受け取り、信じ、従って歩むように招かれています。これこそが、神さまが私たちに与えてくださっている信仰であり、また、そのように歩むことができるように、神さまは今も私たちを守り、導き続けてくださっているのです。
この恵みは、当時の弟子たちだけに与えられたものではありません。今を生きる私たちにも、同じように与えられており、その恵みを素直に受けとって歩むように、と神さまは教えておられるのです。
3、信仰の強さを主張した弟子たち
マルコによる福音書14章26-31節
14:26 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
14:27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
14:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
14:29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。
14:30 イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
14:31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
14章27節で語られているイエス様の言葉は、旧約聖書ゼカリヤ書13章7節に基づいています。
ここで語られる「わたし」は神さま、「羊飼」はイエス様、「羊」は弟子たちを指しています。すなわち、イエス様ご自身が打たれ、十字架にかかって死なれることによって、弟子たちがつまずき、散らされることが、すでに預言されていたのです。
イエス様は、このことを前もって弟子たちに語られました。
それは、後になって弟子たちが裏切ってしまったとき、「イエス様は、私たちの信仰がこれほど弱く、もろいものであることを、最初から知っておられたのだ」と気づくためでした。そして、「それでもイエス様は、私たちを責めるためではなく、信仰から完全に離れてしまわないように、あらかじめ知らせてくださっていたのだ」と悟ることができるようにされていたのです。
さらにイエス様は、《…わたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう》と語られました。
これは、「つまずいて散らされたあなたがたを、再び集める。あなたがたを弟子として教え、訓練してきたあのガリラヤで、わたしはあなたがたを待ち、受け入れる」という約束でもありました。
しかし、このイエス様の言葉に対して、ペテロは強く反発します。
「私の信仰は、そんなに弱いものではありません」「たとえ他の者がつまずいたとしても、私は決してつまずきません」と、力を込めて言い張ったのです。そして、この思いはペテロ一人のものではありませんでした。ほかの弟子たちもまた、同じように自分たちの信仰の強さを信じ、イエス様の言葉をそのまま受けとめることができなかったのです。
しかし、私たちの信仰には、いつも弱さが背中合わせにあります。
自分では「大丈夫だ。何が起きても、心変わりすることはない。イエス様を悲しませるようなことは決してしない」と思っていても、実際に思いがけない困難に直面すると、あっけなく揺さぶられ、変えられてしまうのです。それは、「私の信仰はそんなに弱くはない」と主張していたペテロや弟子たちが、恐れの中で逃げ隠れしてしまった姿と重なります。
それでも私たちが、今日まで信仰を持ち続けることができているのは、私たち自身の強さによるのではありません。私たちの弱さをそのまま受けとめてくださる、神さまのあわれみと愛があったからこそです。
このことを、決して忘れてはなりません。
この事実を抜きにして、信仰を保ち続けることはできないのです。
私たちは、自分の弱さを覚えつつも、信仰は自分の力によるものではなく、神さまから与えられた恵みを受け取っているだけなのだということを、心にとめて歩むように教えられています。
そして、弱さを感じるときこそ神さまから離れるのではなく、むしろ一歩近づき、神さまの憐れみにすがっていく者とされているのです。
そのとき私たちは、変化を恐れず、神さまのご計画に信頼して歩むことができます。
そして、自分では思いもよらなかったような、神さまの祝福をいただくことになるのです。
2026年9月20日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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