ショートメッセージ【マルコの福音書15章_2】

マルコによる福音書15章21-32節
(ののしりの中でも)

1、十字架にすすむイエス様
2、イエス様へのののしり
3、続くイエス様へのののしり

1、十字架にすすむイエス様
 マルコによる福音書15章21-28節を読みます。

15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。
15:22 そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。
15:23 そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった。
15:24 それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。
15:25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。
15:26 イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。
15:27 また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。
15:28 〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕

 兵士たちは、イエス様にあざけりと虐待の限りを尽くしたうえで、処刑場へと連れて行きました。罪人は、自分が処刑される十字架を自ら担がされました。十字架全体ではなく横木であったようですが、この時のイエス様には、それを担ぐ力すら残っておられなかったのです。そこで兵士たちは、ちょうど通りかかったクレネ人シモンに、無理やりそれを背負わせました。

 こうして、ゴルゴタと呼ばれる処刑場に着くと、兵士たちはイエス様に、没薬を混ぜたぶどう酒を差し出します。これは、痛みを和らげるためのものだったと考えられます。

 しかしイエス様は、それをお受けになりませんでした。苦しみを少しでも和らげることなく、そのすべてを受けることが、神さまのご計画であり、私たちの救いのためのみわざであることを、イエス様はよくご存じだったからです。イエス様は、与えられた苦しみを、そのまま引き受けて進まれました。

 マルコは、イエス様が十字架につけられる場面を、驚くほど淡々と記しています。そこには感情的な描写も、詳しい説明もありません。しかしその淡々とした記述の中に、私たちの救いのためのみわざが、神さまのご計画として着実に進められていること、そしてイエス様がその計画を実現するために、一つ一つ従って歩んでおられる姿が示されています。これこそが、人々に告げられる良い知らせ、すなわち《福音》なのです。

 このときイエス様が見ておられたのは、ご自分を殺そうとする人々の愚かさや醜さでも、浴びせられるののしりの言葉でもありませんでした。イエス様が見つめておられたのは、神さまの驚くべきご計画と、十字架での死、そしてその先にある復活、その実現でした。

 イエス様は、あらゆる人々からののしりを受ける中にあっても、父なる神さまが人々を救うというご計画を成し遂げること、その一点に心を定め、十字架を見つめて歩み続けられました。そうして、私たちが罪から救われる道が備えられたことを、マルコは私たちに明らかにしているのです。

2、イエス様へのののしり
 マルコによる福音書15章29-30節を読みます。

15:29 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、
15:30 十字架からおりてきて自分を救え」。

 通りかかった者たちは、「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる」と豪語したのに全く何もできないで、十字架につけられてしまった人よ、あなたに、本当にそんな力があるのなら、今、十字架から自力で降りてきて、自分を救う力を見せてみよ」とののしっています。

 この通りがかりの者たちは、「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる」というイエス様の話を聞いていた、それは人づてだったかもしれませんが、少なくともイエス様のこと、イエス様の言葉を知っていました。
 この記述の前にロ―マ兵の姿が書かれています。マルコによる福音書15章24節です。

15:24 それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。

 十字架で苦しまれているイエス様、また他のふたりの強盗のそのもとで、兵士たちは何の罪の意識も持たず、自分たちの権利とばかり、イエス様の着物を分け合っています。十字架で苦しむ者たちに何の感情も向ない人の残酷さ、愚かさ、あさましさ(愛なく情けないさま)をマルコは隠さずに報告しています。

 では、通りがかりの者たちはどうなのでしょう。ここでマルコは、兵士たちの描写を用いて、この通りがかりの者たちがある意味、兵士たちよりも愚かであさましいと示しているように思われます。

 彼らは、十字架につけられたイエス様に、《十字架からおりてきて自分を救え》と、罵っています。救い主イエス様のことやイエス様のお言葉を聞き知っていた彼らでしたが、そのイエス様を信じようとせずに、「何もできない者だ、自分さえ救えない者が救い主であるはずはない」とただ罵っています。

 しかし、イエス様が進んでおられたのは、ご自分を救う道ではなく、私たちを罪から救う道なのでした。

 通りがかりの者たちは、イエス様のことをまたそのお言葉を、知ってはいたのに、救い主であるイエス様に心を向けることができませんでした。
 彼らは、「自分さえ救えない者が救い主であるはずはない」という自分たちの判断を正しいと信じ、それを誇り、そんな自分たちを高く上げてイエス様を見下していました。
 マルコは、自分たちをほこり高ぶった通りがかりの者たちが、そこに居おられる救い主に心を全く向けられない姿が、ローマ兵たちよりも愚かで情けないさまを示しています。

3、続くイエス様へのののしり
 しかし、イエス様への罵りは、これで終わりませんでした。
 マルコによる福音書15章31-32節を読みます。

15:31 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。
15:32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 ここで指導者たちが、なおイエス様を激しくののしります。

 「自分自身さえ救えないものが、メシヤだとかイスラエルの王などとよく言ったものだ。もし自力で十字架から降りてこられるなら、お前をメシヤだと信じてやってもいい」とののしりさらにイエス様を挑発しています。

 祭司長たちや、律法学者たちが、先の通りがかりの者たちよりもさらに愚かで情けないさまを示しています。

 彼らは、神の民を神さまに導く、責任ある立場に置かれていた者たちでした。
 《他人を救ったが》と言っているので、イエス様の奇跡の御業も見ていたのでしょう。また、見ていなくても聞き及んでいました。そして救い主に関する聖書の言葉もよく知っていたはずでした。
 それでも、自分たちの立場を守るために、自分たちの利益のために、自分たちの判断を正しいとして誇るために、またもしかしたらこのイエスが救い主なのかもという不安を打ち消すために、通りがかりの者たちと同じように「何もできない者だ、自分さえ救えない者が救い主であるはずはない」と決めつけて、それを誇り高ぶっていたのです。
 マルコは、この祭司長たちの姿が愚かで、情けなく、全く残念な人たちであることを描いています。

 さらに彼らは、《いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう》とイエス様を挑発しています。

 聖書を読み始めた時、私も同じように思ったことがあります。ここでイエス様が、神さまの御業をみせ、天の軍勢を呼び寄せて、祭司長たちを懲らしめたら、皆信じたのではないかと。

 でもどうでしょう。彼らが信じたとは、思えません。なぜならこれまでも、癒しのみわざ奇跡を見て、聞いてもベルゼブル(悪魔・悪霊)の仕業だといって来て信じようとしなかったからです。

 イエス様は、ここで十字架から降りてしまえば、救い主としての役割を果たすことができず、人々の救いの道を閉じてしまうことを、よくご存知でした。
 ですからイエス様は、あらゆる人々から罵りを受ける中にあっても、父なる神さまが人々を救うというそのご計画を成し遂げること、その一点に心を定め、十字架を見つめてまっすぐに歩み続けられました。そうして、私たちが罪から救われる道が備えられたことを、マルコはここで明らかにしているのです。

 イエス様は、自分で十字架から降りることができなかったわけではありませんでした。それでもののしりに耳を貸さず、また自分の力を見せつけて自分を高くしようとされず、低い心で神さまのご計画に従い続けられました。

 マルコは、ここで、これまで愚かで残念と示してきた、ピラトやローマ兵たちや通りがかりの人たち、祭司長や律法学者たち(私もこれらの中に入る一人ですが)、と神の子であるイエス様との徹底的な違いを明らかにし、私たち人にはできないが、神であるイエス様にはできる、この方こそ、まことの救い主であるということを示しています。

 32節で《また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。》とあります。
 彼らは、十字架につけられるような罪を犯し、まさにその罪のために十字架での想像を絶する苦しみを受けている最中でした。そんな中でも、自分の罪を見るのではなく、無抵抗でみじめな救い主だとイエス様を見下して、まだ自分の方がましだと自分をイエス様より高くあげて、イエス様を罵っているのです。このうちの1人は悔い改めて、イエス様に心を向けることができたようでしたが。
 自分で自分を何とかしよう、自分を正当化しよう。自分を少しでも高くしようとする人の罪の根深さ、自分の思いや思い込みの強さを見せられます。

 そのような人である私たちが頼れるものは、自分の意志の強さや、自分の理解、自分の思いではないことがここで明らかにされています。
 私たちが頼ることができるのは、十字架から逃れる力を持ちながらそれを見せつけることもなく、ののしられてもあくまで神さまの前に低く、私たちのために十字架に向かわれ、よみがえられたイエス様です。

 いま、イエス様を信じることができている人は、イエス様が十字架で見せてくださった私たちへの愛を今一度覚えましょう。そして信じることができたその幸いを心から喜びましょう。そして、御心が分からないときにも、自分の思いや考え、自分の頑張りに頼るのではなく、分からないままを素直に神さまにお伝えして、尚、御言葉に聞き、導きを求めて祈りましょう。

 まだイエス様を信じておられない方は、自分ではなく、他の人でもなく、このイエス様を信頼して頼っていくことを心からおすすめいたします。
 目の前の出来事だけに目をむけず、心をとらわれず、救いを成し遂げてくださったイエス様、十字架で私たちへの愛を示してくださったイエス様を信頼し、頼り、自分をお任せして歩んでまいりましょう。

2026年11月1日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
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※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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