ショートメッセージ【マルコの福音書14章_1】

マルコによる福音書14章1-11節
(闇を輝かせるイエス様)

1、祭司長や律法学者たちの闇
2、ひとりの女性に見る光
3、ユダに見る闇の強さ

1、祭司長や律法学者たちの闇
 マルコによる福音書14章1-2節

14:1 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。
14:2 彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。

 祭司長たちや律法学者たちの、イエス様に対する殺意は、すでに強く固まっていました。
 しかし彼らは、民衆の反発や騒動が起こることを恐れ、祭の期間は避けようと考えていました。
 彼らは本来、ユダヤの宗教指導者として、民を神さまへ導く立場にありました。ところが実際には、神さまに仕えるのではなく、自分たちの地位や利益を守るために行動していたのです。

 ここに、人の闇がはっきりと現れています。それは罪であり、人が持つ恥ずかしく、目を背けたくなる部分です。 この時の彼らの姿には、その闇が隠されることなく、むき出しにされています。
 彼らは、自分たちの誤りに気づくどころか、それを認めることもなかったでしょう。
 むしろ、イエス様を殺すことこそが神さまのためなのだ、と本気で思い込んでいたのです。
 ここに、人の愚かさがはっきりと示されています。

 人は誰も、この愚かさ、神さまの前にある罪を持っています。マルコは、祭司長や律法学者たちの姿を隠すことなく記すことで、人の闇がいかに深く、恐ろしいものであるかを伝えています。

 それは、彼らだけの問題ではありません。
 私たち自身の中にも、同じような闇があることに気づかされるために、この出来事は記されているのです。

2、ひとりの女性に見る光
 マルコによる福音書14章3-9節

14:3 イエスがベタニヤで、重い皮膚病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
14:5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
14:6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
14:8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
14:9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

 ここでマルコは、人の闇だけでなく、人のうちにある光の姿をも示しています。
 それが、この非常に高価なナルドの香油を注いだ、ひとりの女性の姿でした。

 イエス様が弟子たちとともに食事をしておられるその場に、この女性は、高価な香油の入った石膏のつぼを携えて入ってきました。そして、そのつぼを割り、香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。

 すると、その場に居合わせた弟子たちの中の何人かが、その香油の量と価値に目を向け、「なんという無駄なことをするのか。これを売って貧しい人たちに施すことができたではないか」と、憤りを覚えました。
 確かに、神さまは、弱い立場にある人や貧しい人々を顧みるようにと導いておられます。
 その意味では、この言葉が一概に間違っているとは言い切れない面もあります。

 しかしイエス様は、《するままにさせておきなさい》と言われ、この女性をかばわれました。
 イエス様は、彼女がこの時が特別な時であることを感じ取り、「今しかない」と受けとめて、できる限りのことをしたのだと、はっきり語られたのです。

 女性を責めた弟子たちは、この行為を無駄で、意味のないものとしか見ることができませんでした。けれどもイエス様は、この女性が、イエス様の言葉に耳を傾け、イエス様の歩みをよく見つめ、今何をすることが神さまに仕え、神さまに喜ばれることなのかを、真剣に考えたうえで行動したことをご存じでした。

 彼女は、闇を照らす光であるイエス様に、自分の心そのものを差し出しました。
 自分にできる精一杯をもって、神さまに喜んでいただこうとしたのです。
 その心に、神さまの光が注がれ、女性の内にある光はいっそう輝きを増していきました。
 彼女の心は、深い喜びと平安で満たされていたことでしょう。

 この時代、香油を注ぐことは、大切なお客さまへの深い敬意とおもてなしを表す行為でした。
 この女性は、その思いを込め、できる限り最大の形で表そうとして、イエス様に大量の香油を惜しげもなく注いだのです。

 そしてイエス様は、この油注ぎの意味をはっきりと示されました。
 それは、《わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれた》(マルコ14章8節)ということでした。
 イエス様は、この女性の行為を、ご自身がまもなく十字架に向かわれることを見据えた、特別な意味を持つものとして受け取られたのです。

 ここには、闇だけではない、人の心の中にある光を見ることができます。
 私たち一人一人の中にも、本来、神さまから与えられた光があります。
 しかし、その光は罪の闇によって覆われてしまっています。
 イエス様を信じるなら、その闇は拭い去られ、内にある光が再び輝き始めるのです。

 まだイエス様を信じておられない方は、イエス様に、心の奥にある霊を照らしてもらってください。そうするなら、人としての心からの喜びを味わうことができます。
 また、神さまの愛を知り、この世にはない、神さまからの平安が与えられます。

 すでにイエス様を信じている私たちは、この女性の姿に倣い、神さまに喜ばれることを選び取っていきましょう。
 そして、神さまに仕えることのできる喜びを、あらためて深く味わいたいと思います。
 同時に、私たちの霊が再び罪の闇に覆われてしまわないよう、心を配りながら歩んでいきましょう。

3、ユダに見る闇の強さ
 マルコによる福音書14章10-11節

14:10 ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。

 ユダは、イエス様に忠実に従い、弟子として歩むことのできる立場にありました。
 先ほど見た香油を注いだ女性よりも、物理的にははるかにイエス様の近くにいた人物です。
 本来なら、イエス様に心の闇を照らしていただき、神さまに仕える喜びに満たされることができたはずでした。

 では、なぜユダは闇に覆われてしまったのでしょうか。
 聖書は、ユダが金銭とサタンに捕らえられていた、という事実を淡々と記しています。
 イエス様を売り渡した時の銀貨三十枚は、当時でおよそ四か月分の賃金に相当すると言われます。
 決して、人生を左右するほどの大金ではありません。

 ユダは次第に、イエス様が自分の期待していた救い主ではない、と感じ始めていました。
 彼は、イエス様がローマ帝国を倒し、今すぐ神の国を地上に打ち立ててくださることを望んでいたのです。そのため、十字架へと向かわれるイエス様を受け入れることができず、不満と失望を募らせていきました。

 ユダは、自分が思い描いたイエス様の姿、自分の思いだけを信頼し、神さまである現実のイエス様に信頼することができませんでした。ここに、彼の闇の決定的な原因がありました。

 他の弟子たちも、決して安定した信仰を持っていたわけではありません。彼らもまた、ユダと同じように「強い救い主」を期待していました。
 しかし彼らは、その自分の思い以上に、イエス様を信頼し、イエス様のお言葉を受け入れていったのです。心が揺れながらも、最後までイエス様から離れませんでした。

 これが、ユダと他の弟子たちとの決定的な違いでした。

 イエス様は、何度もユダに悔い改めの機会を与えておられました。
 しかしユダは、それに応えることなく、次第にイエス様から心が離れていきました。
 その結果、悪魔、すなわちサタンの付け入る隙を与え、知らず知らずのうちに、その支配に取り込まれていったのです。

 この箇所でマルコは、まず宗教指導者たちに見られる人の闇を示し、次に香油を注いだ女性を通して人の光を示しました。そして再び、ユダの裏切りを記すことで、人の闇がいかに強く、またそこにサタンの巧妙な働きがあるかを浮き彫りにしています。

 人は、光を持ちながらも、自分の力だけでは闇に完全に打ち勝つことができません。
 だからこそ、イエス・キリストは、人のために死なれ、十字架にかかられなければならなかったのだと、マルコはこの流れの中で示しているのです。

 私たちは誰でも、あの女性の信仰に立つことができます。
 神さまの前に心を差し出し、人としての本当の喜びを味わうことができます。
 一方で、ユダのように、自分の思いに固執し、神さまを拒み、闇に立つこともできてしまいます。

 イエス・キリストは、一人一人の心の光となり、その奥にある霊を照らすために、十字架にかかり、死んでくださいました。
 それは、神さまの前にある私たちの闇を拭い去り、罪が赦されるためでした。

 このイエス様の愛に応える生き方とは、自分の闇を認め、光であるイエス様に、その闇を消していただくことです。そして、残されている光の部分の輝きを、もう一度取り戻していただくことです。

 イエス様を信じるだけで、それは可能です。
 この世の光であるイエス様が、私たちの心の闇を拭い去ってくださいます。そのとき私たちは、人に対しても、闇のない心で向き合うことができるようになります。
 たとえその思いがすぐに相手に伝わらなかったとしても、神さまはその歩みを喜んでくださいます。
 そして、あなたに、神さまにある平安を与えてくださるのです。
 神さまは、私たちを愛と喜びと平安で満たしてくださいます。
 そして、神さまの前に、人として正しく歩むことができるように導いてくださるのです。
 ヨハネによる福音書8章12節を読みます。

8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

 この御言葉が示しているように、イエス様に従って歩む者は、もはや闇の中を歩く必要はありません。
 イエス様ご自身が世の光として、私たちの前を照らし、命へと至る道を確かに示してくださるからです。

2026年9月13日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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