ショートメッセージ【マルコの福音書5章_1】

マルコによる福音書5章1-20節
(イエス様の権威の始まり:ローマの平和と闇の支配を打ち破る)

1、イエス様の権威の始まり:ローマの平和と闇の支配を打ち破る
2、レギオンからの解放:異邦の地でのイエス様の力
(1)地方を支配する闇の力
(2)イエス様を締め出す地方

1、イエス様の権威の始まり:ローマの平和と闇の支配を打ち破る
 今回のマルコによる福音書5章の学びを始めるにあたり、イエス様がご活躍された時代とローマ帝国の関係について少し触れておきたいと思います。
 紀元前31年、オクタヴィアヌスがアクティウム沖海戦に勝利し、長らく続いた内戦状態が終結しました。
 彼は「第一の市民(元首)」となり、実質的に帝政が始まりました。この初代ローマ皇帝こそが、ルカの福音書2章1節に登場する「アウグスト」です。「尊厳な者」や「神聖な者」を意味する称号であり、正式名は「皇帝カエサル、神の子」でした。ここでいう「神の子」とは、死後に神格化された義父カエサルのことを指します。

 アウグストがもたらした「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」は、未曽有の繁栄をローマ帝国にもたらしたと宣伝されました。戦争に疲弊した人々の心に、経済的繁栄という「幸福」をもたらしたアウグストこそが「神の子であり救い主である」と、ローマ帝国は盛んに宣伝したのです。これもまた、ローマ帝国の「良き知らせ(福音)」でした。

 マルコによる福音書は、そのようなローマの人々を意識して書かれたと言われています。
 ユダヤ教や聖書の背景を持たない人でも、記録を読むだけで「この方は神から来た方なのだ」とわかるように、キリスト者への迫害が始まっていたローマで書かれたのです。特に5章は、イエス様の力の大きさが際立っており、ローマ皇帝に使われていた「神の子」という呼び名が、まさしくイエス様こそにふさわしいことを示しています。

 4章では、弟子たちと共にガリラヤ湖で嵐に遭遇したイエス様が、「静まれ、黙れ」と命じると風がやみ、凪になった出来事を読みました。これは、自然界をも支配するイエス様の圧倒的な力を示すものでした。主イエス様は、荒れたところに平和と平安をもたらされる方なのです。

 5章では、このイエス様の力が、悪霊の支配と死という、さらに大きな敵に対してどのように現れるかを見ていきます。

2、レギオンからの解放:異邦の地でのイエス様の力
(1)地方を支配する闇の力
 マルコによる福音書5章1-7節を読みます。

5:1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
5:6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
5:7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。

 イエス様の一行は、ガリラヤ湖の東側にあるゲラサ人の地に着きました。ここはユダヤ人にとっては全くの別世界であり、異邦人が大半を占めるデカポリス地方の一部でした。
 イエス様が舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエス様に出会います。この出会いは、まさに壮絶な霊の戦いの幕開けを告げるものでした。

 悪霊につかれた男性の姿は、サタンによる人間破壊の極致を示していました。

彼は墓場を住みかとし、律法で汚れたものとされる死体に囲まれた場所にいました。これは汚れの極致であり、当時のユダヤ人にとって忌み嫌われる存在であったでしょう。
もはや誰にも鎖でつなぎとめることができず、鎖を引きちぎり、足かせを砕くほどの超自然的な力を持っていました。
夜昼たえまなく墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つける自傷行為に及んでいました。内面の平安を完全に奪われ、どうしようもない力によって破壊されていく姿は、現代社会にも通じる悪霊の仕業の可能性を否定できません。

 しかし、遠くからイエス様を見たこの人が、走り寄って拝し、大声で叫びました。
 悪霊はイエス様を《いと高き神の子イエスよ》と呼び、イエス様の正体を正確に知っていたのです。彼らはイエス様に対して《あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください》と懇願しました。これは、悪霊が支配していた領域にイエス様が入り込み、その秩序を制圧しようとされていることへの、彼らの抵抗と苦痛の叫びでした。
 マルコによる福音書5章8-10節を読みます。

5:8 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
5:10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。

 イエス様が名前を尋ねると、その悪霊は《「レギオンと言います。大ぜいなのですから」》と答えました。
 レギオンとはローマ帝国軍の一軍団、約5,000~6,000人を指す名称です。
 これは、この一人の男性の内に、とんでもない数の悪霊が巣食っていたことを意味します。彼らは、人間に対して途方もない力と圧制を表していましたが、イエス様はそのような圧倒的な力と圧制をも制圧するお方でした。悪霊たちは、自分たちをこの土地から追い出さないようにとしきりに願いました。

 マルコによる福音書5章の冒頭では、イエス様が、ローマ帝国の宣伝する「神の子」としての皇帝とは全く異なる、真の神の子としての権威と力を示されることが語られます。
 ガリラヤ湖の東岸、異邦人の地ゲラサに渡られたイエス様は、レギオンというおびただしい悪霊に取り憑かれ、完全に人間性を破壊された一人の男性と出会われます。

 この男性は、鎖をも引きちぎり、自傷行為に及ぶほどの超自然的な力に支配されていましたが、悪霊たちはイエス様を《いと高き神の子》と認め、苦しめないでほしいと懇願します。
 この場面は、イエス様が闇の勢力に対して絶対的な主権と権威を持っておられることを明確に示しています。
 これは、悪が蔓延するこの世において、神さまがご介入し、人々を真の解放へと導く福音の力強い現れなのです。

(2)イエス様を締め出す地方
 マルコによる福音書5章11-13節

5:11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
5:13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。

 悪霊たちは、イエス様が自分たちをこの地方から追い出さないようにと懇願しましたが、それは許されませんでした。そこで彼らは、近くの山腹で飼われていた豚の大群に入らせてほしいと願います。イエス様がそれを許されると、二千匹もの豚の群れが崖から海になだれ込み、溺れ死んでしまいました。
 ユダヤ人にとって豚は律法によって汚れた生き物であり、この出来事はイエス様が闇の勢力を無力化し、彼らを海の深み、すなわち陰府(よみ)に近い場所に閉じ込めたことを象徴しています。

 この一連の出来事を通じて、悪霊がイエス様の許可なしには何もできなかったことは、神さまと悪魔を同列に置く二元論的解釈が聖書的ではないことを示しています。神さまは圧倒的な力を持っておられ、どんな悪であってもその御手の中にあるのです。
 マルコによる福音書5章14-17節を読みます。

5:14 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
5:15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
5:16 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。
5:17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。

 豚を飼っていた者たちはこの事態に驚き逃げ出し、町や村に事の次第を触れ回りました。
 人々は何が起こったのかと見にきて、悪霊につかれていた人が着物を着て正気になり、レギオンを宿していた者であるのを見て《恐れた》のです。しかし、人々が本当に恐ろしいと感じたのは、解放された男性がもたらす福音の力でした。
 自分たちの経済的損失(二千匹の豚)と比べ、この男性が解放されたことの価値を理解できませんでした。そして、イエス様にこの地方から出て行ってほしいと頼み始めたのです。
 次に、マルコによる福音書5章18-20節を読みます。

5:18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。
5:19 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。
5:20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。

 これは皮肉な状況です。汚れた霊でさえイエス様を追い出すことはできませんでしたが、神さまのかたちに造られた人々は、自分たちの安定志向や経済的損失を優先し、イエス様を追い出すことができました。

 彼らは、たとえ現状が悪くても、秩序が乱れるよりは、解放の光を憎むという立場を選んだのです。しかし、悪霊から解放された男性は、イエス様に同行を願いました。イエス様はそれを許さず、むしろ《「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。》と命じられました。
 ユダヤ人のように間違ったメシア理解にとらわれる心配がない異邦人の地では、この男性が宣教する者となり、デカポリス一帯にイエス様のなさったことを広く伝えていくことになりました。
 このように、神さまの福音は人々の頑なさによって阻まれることなく、広がっていったのです。

2026年4月12日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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