ショートメッセージ【マルコの福音書8章_1】
マルコによる福音書8章1-21節、他
(まだ悟らないのか)
1、四千人への給食
2、パリサイ人の試み
3、悟れない弟子たち
これまでのメッセージのタイトルは、前々回が「本来の教えを誤るな」、前回が「求めるものを見誤るな」でした。そして今回のテーマは「まだ悟らないのか」です。この流れを見ると、人が神さまの教えを理解し、悟ることがいかに難しいかが浮き彫りになります。
私たちは立場や知識に関係なく、神さまの前でしばしば鈍く、気づくのに時間がかかる存在です。しかし、だからこそ神さまのあわれみを求めることの大切さを覚えるなら、今回の聖書箇所から、一歩でも“悟り”に近づくことができるのではないでしょうか。
1、四千人への給食
では、マルコによる福音書8章1-9節を読みます。
8:1 そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、
8:2 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。
8:3 もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。
8:4 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。
8:5 イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。
8:6 そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。
8:7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。
8:8 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。
8:9 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、
ここでは、イエス様が四千人の人々に食事を与えられた出来事が語られています。
8章1節に《そのころ》とありますが、これはちょうど、パリサイ人たちが自分たちの正しさに固執してイエス様を非難しようとしていた時期です。一方で、異邦人の女性は神さまのあわれみを素直に求め、ユダヤ人たちは表面的な奇跡に喜ぶだけで心から神さまを恐れてはいない。そのような出来事が続いていた時期でもありました。
そんな中、三日間もイエス様のもとに集まっていた四千人の群衆は、食べるものがなく、空腹で弱り果てようとしていました。イエス様は彼らを見て深くあわれみ、《もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。》と心を配られました。
そこでイエス様は、弟子たちにあるだけの食べ物。七つのパンとわずかな魚を持って来させ、祝福して配らせました。すると、人々は皆、満腹するほど食べ、残ったパンくずだけで七かごにもなりました。神さまの豊かな備えがどれほど満ちていたかがわかります。
この出来事は、以前の「五千人の給食」(マルコによる福音書6章)によく似ています。しかし興味深いのは、弟子たちが前回の奇跡をまったく思い出していないように見えることです。群衆が気づかないのはまだ理解できますが、弟子たちですら《「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。》と不安そうに言っています。
ここに、私たち人間の弱さがよく表れています。日々の中で、自分の考えや行動を客観的に見ること(現代で言う「メタ認知」)は意外と難しいものです。弟子たちはイエス様に従っていましたが、自分たちがどれほど主観的で、自分の枠に縛られているかに気づいていませんでした。ですから、同じような状況に直面しても、以前、イエス様が成された御業を結びつけて考えることができなかったのです。
2、パリサイ人の試み
続けてマルコによる福音書8章10-13節を読みます。
8:10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。
8:11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。
8:13 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8章10-13節では、イエス様が弟子たちと舟で移動された後、パリサイ人たちがやって来て議論をふっかける場面が描かれています。彼らはイエス様を信じようとして質問したのではなく、「天からのしるしを見せてみろ」と求めて、イエス様を試すために来たのです。
つまり彼らは、「神さまが示されるしるしとは何なのか」、「それが自分たちにどのような関係があるのか」という真剣な問いを持っていたわけではありません。
むしろ、イエス様が人々の注目を集めていることを快く思わず、難癖をつけて評判を落としたいという思惑のほうが強かったのです。
当時のパリサイ人たちにとって、イエス様は“商売敵(しょうばいがたき)”のような存在でした。ですから、彼らが求めた《しるし》も信仰のためではなく、自分たちの立場を守るためのものでした。
これに対してイエス様は、心の中で深くため息をつかれました。「なぜ今の時代は、神さまを試すように、しるしばかり求めるのか」そのような痛みの思いをもって語られ、彼らの求めには応じませんでした。
この姿から、私たちは現代の自分たちの歩みも振り返ることができます。
今の社会にも、利権や立場を守るために動く組織や人々がいます。それ自体が悪いわけではありませんが、本来の目的よりも“自分たちの保身”を優先すると、どんな組織も方向を誤って崩れていく。これは、歴史が何度も示している現実です。
では、私たち自身はどうでしょうか。
何かを信じると言いながら、「自分の願いどおりのしるし」を求めてはいないでしょうか。
神さまよりも、自分の立場や思いを守ることを優先してはいないでしょうか。
パリサイ人に対して深く嘆息されたイエス様の姿は、私たちの心も点検するきっかけを与えてくれます。
3、悟れない弟子たち
今回のメイン箇所となるマルコによる福音書8章14-21節を読みます。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
8:16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。
8:17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。
8:19 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。
8:20 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。
8:21 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。
舟の中で、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、手元にはパンが一つしかありませんでした。その時イエス様は、15節で《「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」》と戒められます。
ここでいう《パン種》とは、彼らが持つ偽りの教えや心の姿勢のことです。
表面的には敬虔に見えても、実際には 自分の立場・利権・保身を第一にする心。その影響に染まらないように、という警告でした。
ところが弟子たちは16節を見ると、「パンが足りないことを叱られたのかな?」と、全く見当違いの話し合いを始めてしまいます。
いま読んでいる私たちは客観的に分かります。「いや、そういう意味じゃないでしょ」と。
しかし、イエス様と共に歩んできた弟子たちでさえ、ここまで的外れだったのです。
これは 現代の私たちにも起こりうる“勘違い” を示している箇所でもあります。
イエス様は、17-18節で弟子たちを問いただしています。
8:17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。
そして、
・五千人を満腹させた時のくずは十二かご
・四千人を満腹させた時は七かご
これら二つの奇跡を思い出させた上で、21節で《「まだ悟らないのか」。》と言われました。
弟子たちは、二度も目の前で大きな奇跡を経験していながら、その意味をほとんど理解していなかったのです。
私たちの日常にも同じ危険があります。
・聖書を読んでも「日課」としてこなしてしまう
・今日、神さまがどのように働いてくださったかを振り返らない
・神さまの恵みを受けながら、気づかずスルーしてしまう
こうした姿勢のままでは、弟子たちと同じように 悟らない心のまま 時間だけが過ぎていきます。
マルコは、この「悟れない弟子たち」をあえて強調して書いています。
それは、“あなたはどうですか?”と読者である私たちに問いかけるため。です。
ですから私たちも、まず聖書を日々いただくところから 始めましょう。
そして、一日の終わりに少し立ち止まり、「今日、神さまはどのように私に関わってくださっただろうか」と振り返ってみることです。
自分の思いや都合ばかりで動いてしまうのが私たちの弱さであり本質です。
だからこそ、神さまのあわれみを求めながら、悟らせていただく必要があります。
2026年6月7日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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