ショートメッセージ【イエス・キリスト_後編⑤】

ルカによる福音書23章34節、43節、46節
ヨハネによる福音書19章26-30節
マタイによる福音書27章46節
ヨハネ1による福音書9章28-30節、他

(十字架上のことばと二人の強盗)

1、午前九時から十二時まで
2、午後三時近く

 本日は、スピンオフ的(番外編として)に、イエス様の十字架上でのお言葉と二人の強盗について見たいと思います。
 今回のスピンオフ(番外編)は、これまで後編で見てきたイエス・キリストの苦しみや十字架での死、復活、昇天、そして聖霊降臨が、一つの流れとしてまとめられていることが示されていたからです。

1、午前九時から十二時まで
 ルカによる福音書23章34節を読みます。

23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。

 ルカだけが記している、イエス様の十字架上での最初の言葉で、それが、父なる神さまへの祈りとなります。イエス様の十字架に関しては、すべての人の罪が明らかにされ、イエス様にぶつけられました。

 民衆は、イエス様がローマ帝国からイスラエルを救うメシヤだと期待していましたが、その期待が裏切られたために怒りを感じました。また、自分たちの保身のためだけに、罪のないイエス様を十字架刑に定めたユダヤ教の宗教指導者たち。さらに、総督ピラトは、イエス様を釈放する唯一人の権限を持っていましたが、自己保身のため、イエスの十字架刑を宣告し、その罪をユダヤ人たちに、《「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。》(マタイ27:24)と言って、なすり付けました。

 そして、ローマの兵士たちは、イエス様をあざけり、馬鹿にし、精神的苦痛と、肉体的苦痛を与えました。イエス様に何の恨みも憎しみもないはずの彼らは、日ごろのうっ憤晴らしのために、弱い人間をいじめることを楽しもうとする残忍さを余すことなくイエス様にぶつけたのです。

 さらに、自分の役得として利益になるものはなんでも取ろうと、まさに、この祈りの最中にイエスの着物をくじ引きで分け合っていました。

 しかし、イエス様は、「このような人のすべての罪を自分が負うので、父なる神さま、どうかこの人たちを赦してください。」と言われているのです。

 私たちは、この愛に応え、イエス様を信じて罪赦されましょう。そして、罪赦された者は、赦しをお与えくださったイエス様の御心に相応しく、イエス様の喜ばれる歩みをいたしましょう。
 ルカによる福音書23章43節を読みます。

23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 これは、イエス様と一緒に十字架につけられた強盗(ルカによる福音書は犯罪人)の一人にイエス様が語られた御言葉です。
 イエス様を中心として、左右にふたりの強盗が十字架につけられていました。冒頭にお読みした、ルカによる福音書23章34節のイエス様の祈りを聞いていた二人の反応は全く違いました。一人は《「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」》(ルカ23章39節)と、イエス様に悪口を言い続けます。しかしもう一人は、ルカによる福音書23章41-42節で、

23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

 と言いました。
 彼は、自分の罪を認めて、罪にふさわしく報いを受けていることも認めています。そして神さまの憐れみにすがっています。この強盗が自分の罪を悔いて、イエス様を神の子だと信じたことが明らかにされています。
 そんな彼に、イエス様は、《「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。》と言われたのです。
 2人の強盗は、イエス様を真ん中にして完全に分け隔てられました。
 天国を見る者と、苦しみ続ける者です。

 人は、神さまによって造られ、最終的にこの強盗たちのように大きく二つに分けられます。人には、この二つしかありません。イエス様を信じ、死も痛みも叫びも涙もない天国で神さまと共に歩むか、永遠の滅びに行くかです。
 どちらかしかないとすれば、あなたはどちらを選択されるでしょうか。
 ヨハネによる福音書19章26-27節を読みます。

19:26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。
19:27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

 十字架の傍まで来ていた女性たち中の一人、イエス様の母マリヤに対して、イエス様は傍にいた愛弟子(おそらくヨハネ)に「母マリヤを、これからあなたの母として世話して欲しい」と頼まれています。
 母マリヤには、イエス様以外にも息子たちや娘たちがいました。兄弟の内、ヤコブは、後にエルサレム教会の指導者のひとりとなったと考えられています。しかし、この時は、兄弟や姉妹たちは信仰の面では、まだ、未熟もしくは未信者であったのでしょう。

 ここでイエス様は、人間的な生活の心配ではなくて、母マリヤが、悲しみによって、あの姉妹マリヤやマルタがラザロを亡くして、霊的に弱り果ててしまったように、霊的に落ちないようにその信仰を支えて欲しいと頼まれているのでしょう。

 イエス様は、母マリヤの今後の霊的な養いを弟子のヨハネに託されたのです。イエス様は、肉親だからというのではなく、だれでも一人の大切な魂として愛されています。
 マタイによる福音書12章49-50節を読みます。

12:49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

 イエス様は、全ての信仰者に対して、《わたしの兄弟、また姉妹、また母》と言って、責任を持って愛し続けてくださるお方であることが、示されています。私たち一人一人も同じように愛されているのです。

2、午後三時近く
 マタイによる福音書27章46節を読みます。

27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(※マルコによる福音書15章34節もほぼ同じ。)

 イエス様は、詩篇22篇1節のお言葉を持って、叫ばれました。

22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

 イエス様は、私たち人間が犯した罪を赦すために、ご自身が代わりにその罰を受けることを選ばれました。そして、父なる神さまの人の罪に対する怒りが、すべてイエス様に降りかかることを知っておられたのです。
 しかし、分かっていても罪人として、父なる子と御子なるキリストの父と子の関係、永遠の愛の交わりのきずなが断ち切られることは絶え難く、また、恐ろしくて叫ばずにいられなかったのでしょう。

 今や、罪ある私たちの身代わりとなってくださったイエス様は、父と呼べずに、わが神と呼ばれているのです。
 私たち信仰者は、赦しをいただいた信仰者として、この悲痛なまでの苦闘の思いに感じ入り、ここまでして、私たちの罪を赦すために、耐えてくださった愛の深さを、いつも覚えている必要があります。
 ヨハネによる福音書19章28-30節を読みます。

19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
19:29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

 この後、(肉体の死の)時が来たことを感じられたイエス様は、これでわたしのなすべきことはすべて完了したと感じられて、聖書が成就されるために、《「わたしは、かわく」》と言われたのです。
 詩篇22篇15節を読みます。

22:15 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。

 次に、詩篇69篇21節を読みます。

69:21 彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました。

 兵士は、イエス様の《かわく》という言葉で、のどが渇いたと受けとめたので、ぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結び付けて口の所に持って行ったのです。
 しかし、これはすべて聖書のおことばが成就するためでした。

 この《かわく》というのは、霊的な渇きのことであって、わたし自身を差し出すことによって、神さまの救いの御業が完成し、救いのご計画が進んでいくことを待ち望むという意味で、《「わたしは、かわく」》と言われています。

 そして、それは次の最後の叫びで締めくくられています。
 待ち望んでいたことが、わたしの死によってここに実現した。救いのみわざが完成したという意味で、《「すべてが終った」》と言われたのです。

 つまり、「これで罪に縛られていて、全く自由のなかった人々が、罪から解放され、義人として神さまの御前に立つことができる、わたしがこの命を差し出すことによって、それは実現した、そして終わったのだ。」と、言うことになります。
 このイエス様の思いが、この一言に十分、言い表されているとして、ヨハネは、十字架の結びとして、ここに、この一言を記しているのです。

 《「すべてが終った」》この一言が、罪に縛られていた人々に、唯一の希望を与える宣言となっています。
 この一言によって人はもう罪に悩まされることはない信じることができ、神の子として受け入れられたと信じることができるのです。

 《「わたしは、かわく」》《「すべてが終った」》は、イエス様が、「ここに、わたしの愛があります。」と、当時の人たち、現代の私たち一人ひとりの心に語り掛けておられます。

 そして、ルカによる福音書23章46節です。

23:46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。

 自分の成すべき使命を終えたイエス様は、「わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、このあとのことを父なる神さまに完全におまかせされました。
 ローマ人への手紙8章28節を読みます。

8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 イエス様は、ご計画に従って万事を益となるようにしてくださる神さまにお委ねになられました。
 私たちも、この神さまを心から信頼して委ねていきましょう。
 また、イエス様のなされた御業によって罪深い私たちに救いが与えられていること、この神さまの愛とあわれみ大いなる恵みを喜び、この喜びを霊的事実として霊に刻み、感情、痛み、苦しみ、悲しみに支配された時も霊にきざみ消えることのない喜びを覚える者でありたいと思わされます。

2024年11月24日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳


(ハンス・フォン・アーヘン 「二人の盗賊とキリストの磔刑」)

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