ショートメッセージ【マルコの福音書12章_2】
マルコによる福音書12章18-37節
(霊の思いで受け取る)
1、サドカイ人の思い違い
2、律法学者の質問
3、キリストに関する誤解
1、サドカイ人の思い違い
マルコによる福音書12章18節を読みます。
12:18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、
サドカイ人たちは、人は死んだあとによみがえることなど決してない、と考え、復活ということを一切信じていませんでした。彼らの信仰は、神さまの救いや永遠のいのちよりも、今この世での現実や目に見える秩序だけに心を向けるものでした。つまり、信仰の関心が、この地上の生だけに限られていたのです。
マルコによる福音書12章19-23節を読みます。
12:19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
12:20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、
12:21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。
神さまがモーセを通して与えられた律法には、兄が子どもを残さずに死んだ場合、弟がその妻をめとり、兄の名を残すために子をもうける、という定めがありました。家系を絶やさないための、当時の社会にとって大切な決まりでした。
サドカイ人たちは、この律法を持ち出しながら、七人兄弟が次々に子どもを残さずに亡くなり、結果として七人全員が同じ一人の女性を妻にした、という極端な作り話をイエス様に語ります。
そして彼らは、「もし復活があって、皆がよみがえるとしたら、この女性はいったい誰の妻になるのか」と問いかけました。
彼らの狙いは明らかでした。復活を前提にすると、現実では考えられない混乱が生じ、理屈が合わなくなるではないか、しかもそれは律法にも反することになる、だから復活などあり得ない、という結論に導こうとしたのです。
つまりサドカイ人たちは、復活の真理を求めて質問しているのではなく、律法を利用して、復活信仰そのものを否定しようとしていたのでした。
マルコによる福音書12章24-25節を読みます。
12:24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。
12:25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
イエス様は、サドカイ人たちの理屈そのものを正されました。それは、「あなたがたは、神さまの力の大きさも、聖書が語っている神さまのご計画も、本当の意味で理解していない」という指摘です。神さまの偉大さや知恵の深さ、そして神さまのご計画が、人の思いをはるかに超えているということを知らないために、復活をこの世の延長としてしか考えられなくなっている、というのです。
イエス様は、復活とはこの世の仕組みや関係をそのまま引き継ぐことではない、と教えられました。人が死人の中からよみがえるとき、置かれるのは、この世とはまったく異なるあり方です。そこでは、結婚という制度も必要なくなり、人は天にいる御使のような存在とされます。
つまり復活のいのちは、地上の常識や人間の理屈では測ることのできない、神さまの力による“新しいいのち”なのです。
イエス様は、狭い視野と人間中心の考えにとらわれて復活を否定するサドカイ人たちに対し、神さまの力と聖書の真意に立ち返るよう、はっきりと語っておられるのです。
マルコによる福音書12章26-27節を読みます。
12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
イエス様は、サドカイ人たちが信頼しているモーセの書、つまり旧約聖書そのものから、復活の真理を示されました。《柴の篇》、すなわち出エジプト記3章で、神さまがモーセに語られた言葉を、あなたがたは読んだことがあるはずではないか、と問いかけられたのです。
そこで神さまは、《『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』》と語っておられます。注目すべきなのは、神さまがここで、「かつて彼らの神であった」と過去形では語っておられない、という点です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、すでにこの地上の生涯を終えていましたが、神さまは今もなお、彼らの神であり続けておられるのです。
それは、彼らが信仰によって、神さまから復活と永遠のいのちを約束され、生きている者とされている、ということを意味しています。神さまは、死んだ者の神ではなく、永遠に生きる者の神であり続ける方です。そのことは、神さまご自身の言葉として、はっきりと聖書に記されています。
にもかかわらず、復活を認めないのは、まさに大きな思い違いではないか、とイエス様は厳しく指摘されているのです。
この言葉は、私たちにも向けられています。知識や理屈、これまでの経験だけで聖書を分かったつもりになり、心を閉ざしてしまうなら、神さまの語りかけを聞き逃してしまいます。
「神さまのことを、もっと教えてください。その深みを、もっと味わわせてください」と、素直な心で神さまの前に立ち、聞く耳をもって聖書に向き合うことが、何より大切なのです。
2、律法学者の質問
マルコによる福音書12章28-34節を読みます。
12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
12:34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
ここに登場する律法学者は、これまでのように、イエス様を試すようなことをしていません。また、言葉尻を捕えて陥れようとした人ではありませんでした。彼は、これまでの議論を聞き、イエス様の答えの確かさに心を動かされ、素直な疑問として質問を投げかけたのでしょう。
この律法学者は、律法の専門家であることを誇りにして人を見下すのではなく、人の言葉に真剣に耳を傾ける、低い心を持った人でした。指導部からそう教えられているから、という理由だけで疑問を胸にしまい込むのではなく、自分の立場やプライドに縛られず、神さまの御心を知りたい、神さまの前に正しくありたい、という思いを持ち続けていたのです。
そして、イエス様の答えを聞いたとき、彼の心には、律法に示されている神さまの御心を正しく受け取る霊の思いが起こされました。彼は、その思いに逆らわず、素直に《仰せのとおりです》と応答します。
その姿を見て、イエス様は《「あなたは神の国から遠くない」》と言われました。
この出来事は、律法学者の中にも、心から神さまの御心を求め、イエス様の言葉に真実に応答する人がいたことを示しています。そしてそれこそが、神さまが喜ばれる、神さまに従う者の姿であることを、私たちに教えているのです。
3、キリストに関する誤解
マルコによる福音書12章35-37節を読みます。
12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
12:37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
イエス様は、宮に集まっていた群衆に向かって、この問いを投げかけられました。これは、当時の律法学者たちが教えていた「キリスト理解」に対する、イエス様からの問いかけでした。イエス様は、民が当然のこととして受け止めていた救い主キリストについての理解に、見過ごされていた誤りがあることを示し、正しい理解へと導こうとされたのです。
当時、律法学者たちは、キリストを《ダビデの子》、つまりダビデ王の血を引く王として教えていました。そのキリストは、やがて王として立ち、力によって敵を打ち破り、国を治め、公平と正義を行う者だと期待されていました。その理解には、旧約の預言に基づく一面の真理がありました。エレミヤ書23章5節を見てみましょう。
23:5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
しかし、それはキリストの姿の一部に過ぎませんでした。律法学者たちは、自分たちの期待や思いに合う預言だけを取り上げ、キリストを理解し、それを民に教えていたのです。その結果、キリストは《ダビデの子》、すなわち人間的な王としてのみ受け取られるようになっていました。
そこでイエス様は、ダビデ自身が語った言葉を取り上げ、《このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか》と問いかけられました。これは、キリストがダビデの子である以上に、ダビデをも超えるお方であることを示すための問いでした。
群衆は、このイエス様の語りに、喜んで耳を傾けていました。それは、これまで当たり前だと思っていた理解が問い直され、キリストについて、より深い真理へと導かれていく言葉だったからです。
イエス様は、キリストが単に《ダビデの子》であるだけでなく、ダビデ自身から《わが主》と呼ばれるお方であることに、私たちの目を向けさせておられます。キリストは、地上の王として力で支配する存在ではなく、もっと深いところで人を救うお方なのです。
イザヤ書53章5節を読みます。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
この預言が示しているように、キリストは、私たちを罪から解放するために来られた霊的な王です。神の子として、一人ひとりの前に立ち、神さまとの平和へと導いてくださるお方です。イエス様は、聖書を通して、「このキリストこそ、あなたがたが本当に望むべき救い主なのだ」と、正しいキリスト理解へと人々を導かれました。
また私たちは、サドカイ人たちの思い違いからも、大切な教えを受け取ります。頭や理屈、これまでの経験だけで、聖書を分かったつもりになり、心を閉ざしてしまってはいけません。
「神さまのことを、もっと教えてください。その深みを、もっと味わわせてください」
このように素直に求め、心を神さまの前に開き、聞く耳をもって御言葉に向き合うことが大切なのです。
十字架で死に、葬られたイエス様が復活されたことは、私たちの信仰を支える確かな出来事です。しかしそれは、単なる過去の出来事ではありません。イエス様の復活は、今を生きる私たち一人ひとりの人生に、神であるイエス様が深く関わってくださるという、確かな証しです。
イエス様は、私たちをも復活へと導き、永遠に、私たちの、そして「私の」神さまとなってくださいます。
私たちの信仰は、イエス様を信じることから始まります。そしてそれは、復活されたイエス様を信じて生きることなのです。
イエス様は、質問した律法学者をほめられました。それは、「あなたは自分の肉の思い、つまり人間的な計算や立場から答えたのではなく、霊に導かれて、正しく答えました。あなたは、神さまの御国の約束にあずかる信仰のすぐ近くまで来ていますよ」と語りかけるような評価でした。これは、復活を理屈で否定し、心を閉ざしていたサドカイ人たちの態度とは、はっきりと対照的でした。
こうしてイエス様は、民たちが抱いていたキリスト理解の誤解を一つひとつ解いておられます。聖書の一部分だけを切り取って理解するのではなく、聖書全体の流れや文脈の中で、神さまのお心を受け取ることの大切さが、ここで示されています。
私たちもまた、知識や経験、理性で「分かったつもり」になるのではなく、「聖書を正しく理解したい」「神さまの御心を知りたい」「神さまの前に正しくありたい」と、純粋に願う霊の思いを大切にするよう教えられています。そのように求めるとき、神さまは私たちの心の奥に働きかけ、霊において導いてくださいます。
イエス様が、あえてこの律法学者をほめられたのは、「今あなたが口にした答えは、あなた自身の知恵から出たものではなく、あなたの心に神さまが働いて、神さまご自身が語らせてくださったのだ」ということを、そこにいた民たちにも、そして今を生きる私たちにも、悟らせるためであったのでしょう。
2026年8月9日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
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【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
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