ショートメッセージ【マルコの福音書12章_1】
マルコによる福音書12章1-17節
(神のものを盗まない)
1、ぶどう園のたとえ
2、巧妙な策略
3、デナリ銀貨
1、ぶどう園のたとえ
ここは、前回見た11章27節から続く場面です。ユダヤの最高議会であるサンヘドリンの意向を受けた指導者たちが、イエス様の言動を問題にし、取り締まろうとして立ちはだかりました。ところが、イエス様から投げかけられた問いに、彼らは答えることができませんでした。そこで、はっきり答えることを避け、あいまいな返事でその場をやり過ごそうとしたのです。そのような彼らに向かって、イエス様は、たとえ話を語り始められます。
12:1 そこでイエスは譬で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
12:2 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。
12:3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。
12:4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。
12:5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
12:6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。
12:7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、
12:8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
たとえ話の内容を、整理して確認してみましょう。ある土地の所有者が、自分の土地にぶどう園を造り、収穫から正当な収益を得ようとしました。そのために、外からの侵入を防ぐ垣をめぐらし、ぶどう酒を造る設備も整え、農夫たちと契約を結んで、収穫の一部を納めてもらうことにしたのです。
収穫の時期になると、主人は取り分を受け取るために、何人もの“しもべ”を農夫たちのもとへ送りました。しかし農夫たちは、その“しもべ”たちを打ちたたき、ある者は殺してしまいました。主人は、何かの行き違いがあったのかもしれないと考え、最後には「自分の息子なら敬ってもらえるだろう」と期待して、愛する息子を送り出します。
ところが農夫たちは、この息子がいなくなれば、ぶどう園は自分たちのものになり、自由にできると考えました。そこで彼らは、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた、というのがこのたとえ話です。
イエス様は、この農夫たちの姿に、当時のユダヤの最高指導部の現実を重ねておられます。たとえの中の農夫たちはユダヤの指導者たちを、任せられたぶどう園は神の民であるユダヤの人々を指しています。
本来、指導者たちは、神の民が神さまの前に忠実に生きることができるように導き、育てる責任を負っていました。しかしイエス様は、当時の指導者たちに、その責任を果たそうとする姿勢がまったく見られないことを、はっきりと見抜いておられたのです。
マルコによる福音書12章9-12節
12:9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
12:10 あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。
12:11 これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。
12:12 彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
ここで語られている《捨てた石》、そして《隅のかしら石》とは、イエス様ご自身のことを指しています。本来、建物の土台として最も重要な場所に据えられるべき石が、家を建てる者たちによって捨てられてしまった、しかしその石こそが、神さまによって要の石とされた、という意味です。
当時の指導者たちは、自分たちの組織である最高指導部サンヘドリンに主権があるかのように振る舞い、自分たちの権威を守ることばかりを気にしていました。そのため、真の主権が神さまにあることを認めようとせず、神さまが遣わされたメシヤ、すなわち救い主であるイエス様を拒み、ついには殺そうとしていたのです。
イエス様は、このたとえ話を通して、指導者たちの姿を厳しく指摘されます。それは、「あなたがたは、神の民であるユダヤの人々を、自分たちのものにしようとして、神さまのものを奪っている」ということ、そして「その上、神さまが愛して遣わされたひとり子さえも殺そうとしている、きわめて深刻な状態にある」ということでした。
たとえ話の結びでは、愛する息子を殺された主人が、農夫たちに裁きを行い、ぶどう園を、契約を守る別の農夫たちに与えます。ここで「殺し」と語られているのは、単なる報復の話ではなく、指導者たちが神の民として祝福を受ける契約そのものを失ってしまう、という厳しい現実を示しているのでしょう。彼らは、神の民としての立場から切り離され、滅びへと向かう者となってしまった、ということです。
イエス様は、このたとえ話を、指導者たちだけでなく、弟子たちや民衆にも聞かせておられました。それは、当時の指導者たちが、神さまのものを自分のもののように扱い、神さまから見捨てられるほどの不信仰に陥っていることを、弟子たちと民衆に示し、はっきりと警告するためだったのです。
2、巧妙な策略
マルコによる福音書12章13-17節
12:13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
12:14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
12:15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。
12:16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。
12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。
最高指導部サンヘドリンは、パリサイ人とヘロデ党の人々をイエス様のもとへ送り込みます。パリサイ人は、自分たちこそが正統で純粋なユダヤ教信仰者だと考え、自分たちで定めた細かな規則を守ることを何よりも重んじていました。一方、ヘロデ党は、ヘロデ王家の流れをくむ人々で、ローマ帝国の支配を受け入れ、そのもとでの平和と安定を歓迎していた人々です。
この二つのグループは、本来、立場も考え方も正反対でした。パリサイ人はローマ帝国の支配に反発し、ヘロデ党はその支配を支持していたからです。つまり、互いに敵対し、対立していた関係でした。しかし彼らは今、「共通の敵」と見なしたイエス様を陥れるために手を組み、周到な策略を用意して近づいてきたのです。
その策略とは、ローマ皇帝カイザルへの納税をどう考えるか、という問いでした。もしイエス様が「納税は正しい」と答えれば、ローマの支配を認めることになり、ユダヤの人々から強い反発を受けることになります。反対に、「納税は正しくない」と答えれば、ローマ政府に逆らう危険人物として訴え出る口実ができました。
どちらに答えても、イエス様を追い詰めることができる、非常に巧妙な罠だったのです。しかしイエス様は、その企みを見抜いた上で、《「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。》と答えられました。この言葉は、彼らがどこからも攻め込むことのできない、完全に隙のない答えでした。そのため、人々はイエス様に驚嘆せずにはいられなかったのです。
3、デナリ銀貨
マルコによる福音書12章16節
12:16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。
ローマ帝国への納税は、当時、男子は14歳以上、女子は12歳以上が、65歳までの間、ひとりにつき年に2デナリ、つまりおよそ2日分の労賃を支払う仕組みだったようです。この税は、ローマの貨幣であるデナリ銀貨で納める必要がありました。
このデナリ銀貨には、ローマ皇帝の肖像が刻まれていました。さらに、「神なるアウグストゥスの子、ティベリウス、カイザル・アウグスト」という文字が記され、裏面には、女神の姿で表された皇帝の母リビアの像と、「大祭司」という称号が刻まれていました。
ユダヤの人々にとって、この銀貨で税を納めるという行為は、ローマ皇帝を神とし、その母を大祭司として認めるかのように感じられるものでした。そこには、信仰上の強い反発と屈辱があり、この納税自体を不信仰だと受け止める考え方もありました。それは、当時の指導部の教えでもあったようです。
そのような状況の中で、イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と語られました。これは、「デナリ銀貨で納税したからといって、それが不信仰になるわけではない」ということを、はっきり示す言葉でした。デナリ銀貨で税を納めることは、信仰の本質に関わる問題ではなく、それを不信仰だと断じるのは、必要以上のこだわりだということです。
イエス様は、策略をかわすためだけにこの言葉を語られたのではありません。人々に、何が信仰の本質なのか、正しい信仰の在り方を教えておられたのです。
さらに、《神のものは神に返しなさい》という言葉は、その場にいた指導者たちへの、厳しい警告でもありました。それは、「あなたがたは、ぶどう園のたとえ話に出てくる農夫たちのように、神さまのものを自分のものにしている」という指摘です。神さまから預かり、神さまへと導くべき神の民を、自分たちの利益を生み出す手段にすり替えてしまっている。その姿は、まさに神さまのものを盗んでいる状態だ、だからこそ「神さまのものを神さまに返しなさい」、信仰の姿勢を改め、神さまに心を向けなさい、という呼びかけなのです。
では、私たちはどうでしょうか。今、私たちに与えられているもの――環境も、人間関係も、仕事も、時間も、体も、いのちも、そして自分の思いさえも――それらはすべて、神さまによって与えられているものです。いのちも時間も、私たちは自分の力で自由にコントロールすることはできません。ここで、イザヤ43章1節を見てみましょう。
43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。
《あなたはわたしのものだ》というこの言葉を、素直に受け取ることのできる人は幸いな方だと言えます。私たちは、すべてが神さまのものである、という立ち位置に立ち、人生そのものを神さまから預かっているのだと感謝して生きることが大切です。
そのとき、神さまのものを盗むのではなく、神さまが望まれるものを、神さまにお返しする歩みが始まります。イエス・キリストによって救われ、与えられた信仰の人生を、神さまのものとしてお戻していくこと、それこそが、私たちの生き方そのものなのです。
2026年8月2日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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ニックネームでの参加もOKです。

