ショートメッセージ【マルコの福音書13章_1】
マルコによる福音書13章1-13節
(見えない神に頼る)
1、神殿に目をとめた弟子
2、前兆 ― 知りたがる弟子と語るイエス様
3、終りの時代の信仰者
1、神殿に目をとめた弟子
マルコによる福音書13章1-2節
13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
13:2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
マルコによる福音書11章でイエス様は、いかにも実がなっているように見えて実のなかったイチジクの木を通して、見える姿に惑わされず、見えないけれども何でもおできになる神さまに目を向け、この神さまに信頼して生きることを教えておられました。
またその後、律法学者たちの偽善、つまり外側だけ整って中身のない信仰について、民たちに語られるイエス様の言葉を、弟子たちも聞いていたはずです。
それにもかかわらず、弟子たちの中には、見えない神さまではなく、見えるもの、ここでは神殿の立派な外観や壮大さに心を奪われ、そこに頼ろうとする思いがあったことが記されています。
それは、形だけの信仰で神殿に礼拝をささげていた人々や、神殿で商売をしていた人々、また偽善的な律法学者たちと同じ、不信仰の部分でもありました。
神殿は本来、神さまのご臨在を示す大切な場所でした。
しかし、その外観や見栄えだけに目を奪われてしまうなら、信仰に導くものではなく、かえってつまずきとなり、妨げとなってしまうのです。
イエス様がここで弟子に語られたのは、この世のものは、どれほど立派に見えても、いつまでも残るものではないということでした。
世のものに心を奪われている限り、私たちは霊的に歩むことができません。つまり、神さまと正しい関係に立ち、神さまに心を向けて生きることができなくなってしまうのです。
私たちは、りっぱな外観や雰囲気によって信仰を支えるのではありません。
見えなくても、確かにともにいてくださるイエス様ご自身を神殿として、そのイエス様を通して、霊である見えない神さまに心を向けて歩んでいく必要があるのです。
2、前兆 ― 知りたがる弟子と語るイエス様
マルコによる福音書13章3-4節
13:3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。
13:4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子たちは、もし神さまの神殿が崩れ去るようなことが起きるなら、神さまを信じてきた自分たちの信仰の土台までも崩れてしまうのではないか、という恐れを抱いたのでしょう。
イエス様の言葉を聞いたとき、彼らの心の中に急に不安が起こされてきたのでしょう。
彼らはこの時、イエス様のお言葉そのものに信頼して立っていたというよりも、自分たちの考えや思いを土台にしていました。
だから不安になり、「そんなことが起きたら困ります。それはいつなのですか。前もって知らなければ不安です。どんな前触れがあるのですか」と、イエス様に確かめようとしたのです。
本来ここで受けとめるべきだったのは、神さまがなぜ神殿の崩壊をお許しになるのか、その出来事の背後にどのような神さまのお心があるのか、ということでした。
しかし弟子たちは、神さまのお心よりも、自分たちの不安や都合、自分たちの立場を基準にして、この問いを投げかけていたのです。
マルコによる福音書13章5-8節
13:5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
ここでイエス様は、神殿がいつ崩れるのかということよりも、世の終わりの時代に入ったしるしについて語り始められます。
それは、イエス様が十字架にかかられる時から、すでに終わりの時代が始まることを示している、と受けとめることができます。
その終わりの時代の始まりの中で、神殿の崩壊という出来事が起こり、そこに、ユダヤの人々をキリストへと向かわせようとされる神さまのお心が示されていくのです。
実際、イエス様が十字架にかかられてからおよそ四十年後、紀元七十年に、エルサレムはローマ帝国に包囲され、神殿は崩壊しました。
さらにイエス様は、終わりの日へと向かう最終段階が近づいていることを知らせる前触れとして、いくつかのことを弟子たちに明らかにされます。
それは、神殿の崩壊が終わりの時代に入った最初の合図であり、その後、神さまがさまざまなかたちでご計画を進めていかれる、ということでした。
そのしるしとして語られたのが、多くの偽キリストの出現、戦争や民族と民族の争い、国と国との争い、そして地震やききんといった自然災害です。
まるで今の世界の様子を見ているかのようで、当時の弟子たちと同じように、私たちも不安な気持ちになるかもしれません。
しかしイエス様は、その中で「人に惑わされないように」「あわてるな」とはっきり語っておられます。
終わりの日は、考えていても考えていなくても、必ずやって来ます。
恐れていても恐れていなくても、確実に訪れます。
しかし、イエス様を信じる者は、何も恐れる必要はありませんし、あわてる必要もありません。
なぜなら、信じて救われた私たちには、終わりの日が滅びの時ではなく、恵みの時であり、天の御国の始まりであるという約束が与えられているからです。
3、終りの時代の信仰者
マルコによる福音書13章9-13節
13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
13:12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
これまでのイエス様の話を聞いていると、次はどのような出来事が起こるのか、その続きを知りたくなるところです。
しかしイエス様は、ここで出来事の説明をいったん止めて、終りの時代に生きる信仰者がどのような役割を与えられ、どのように歩むのかという大切なことを語られます。
それは、終りの時代において、信仰者が単なる傍観者ではなく、当事者として深く関わっていくということでした。
その役割を果たす中で、信仰者は世から反発を受け、嫌われ、時には憎まれ、苦しみや悩みを経験することになる、とイエス様は語られます。
けれども、そこで恐れたり、心配したりする必要はありません。
神さまは、ひとりでも多くの人をご自分のもとへ導くために、私たちを証し人として立て、用いようとしておられるのです。
すべては神さまの御手の中にあります。だからこそ、どのような状況の中に置かれても、神さまは私たちを守り、助け、そして導いてくださるのです。
13節で語られている《最後まで耐え忍ぶ》という言葉は、つらいことがあっても、ただ黙って我慢し続けなさい、という意味ではありません。
もともとの意味は、「今、自分が立っている場所に踏みとどまる」ということです。
イエス様を信じた者は、イエス様のお言葉とイエス・キリストご自身を土台として、揺るがされない場所に立たせていただいています。
その土台から、自分のほうから離れていかないように、何をどのように信じているのか、自分の信仰の立ち位置を確かめ、足場をしっかり固めなさい、という勧めなのです。
イエス様を信じ、ご聖霊によって証しをする者が、世から憎まれることは、ここに書かれているとおりです。
しかし神さまは、「あなたは信じたのだから、あとは自分で証しをして、世からの反発にも一人で耐えなさい」と言って、私たちを闇の世に放り出されるお方ではありません。
私たちの歩みは、神さまと二人三脚で歩む歩みです。
神さまは、私たちと共に悩み、助け、あわれみ、支えてくださいます。その恵みと確かさを、日々の歩みの中で汲み取らせていただくのが、信仰の歩みなのです。
ただし、二人三脚で歩むがゆえに、神さまのご計画である人々の救いのために証しをする中で、世から反発を受けることもある、という現実を理解しておく必要があります。だからこそ、足元をしっかり見つめ、信仰の土台から自分のほうから外れていくことのないように、神さまの御手の中にある羊として歩み続けるように、と私たちは教えられているのです。
2026年8月23日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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