ショートメッセージ【マルコの福音書12章_3】
マルコによる福音書12章38-44節
(やもめの信仰)
1、偽善の律法学者
2、2レプタ献げたやもめ
3、神の目による評価
1、偽善の律法学者
マルコによる福音書12章38-40節
12:38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
12:39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
12:40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
ここでイエス様は、律法学者たち本人に向かって語られたのではなく、律法学者たちに導かれてきた民たちに向かって、注意を与えておられます。前の箇所では、「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者もいました。しかし一方で、律法学者の多くは、信仰の中身よりも形を重んじ、見せかけだけの信仰に陥っていたのです。
イエス様は、律法学者たちの偽善の姿を、具体的に五つ挙げて指摘されます。
一つ目は、《長い衣を着て歩くこと》です。これは、学者であることを誇示し、人々から尊敬を受ける立場にあると示すために、足首まで届く特別な衣を身に着けて歩く姿でした。
二つ目は、《広場であいさつされる》ことです。多くの人の前で、「先生」と呼ばれ、敬意をもって扱われることを好んでいました。
三つ目は、《会堂の上席、宴会の上座を好んでいる》ことです。人々の中で目立つ場所に座り、自分たちの権威が認められていることを示そうとしていたのです。
四つ目は、《やもめたちの家を食い倒し》ていることです。本来、律法学者たちは、弱い立場に置かれているやもめを守り、支える役割を担っていました。ところが実際には、やもめたちに自分たちをもてなすよう求め、逆に生活を圧迫して搾り取っていたのでした。
五つ目は、《見えのために長い祈をする》とです。心から神さまに向かう祈りではなく、信仰深い人に見せるための、見せかけの長い祈りでした。
ここでイエス様が問題にしておられるのは、彼らの教えの内容ではなく、彼らの行動です。その行動が偽善に満ちていることを示し、民たちに対して、「このような信仰者になってはならない」と、はっきりと警告しておられるのです。
信仰者に限らず、人からよく見られたい、立派だと思われたいという思いが強くなりすぎると、人はどうしても外側を取り繕うようになります。律法学者たちの目は、神さまやイエス様ではなく、人々の評価に向いていました。そのため、人からどう見られるか、人から偉いと思われるかということばかりに心を奪われてしまったのです。
たとえ信仰を持っていても、偽善というわなに捕らわれてしまえば、その信仰も、そのための努力も、実を結ばなくなります。ここに描かれている律法学者たちが、その姿でした。そしてそのような生き方は、神さまからも、人々からも、心を背けられる結果を招いてしまうのです。
2、2レプタ献げたやもめ
マルコによる福音書12章41-44節
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
このときイエス様が見ておられたのは、神殿で自発的に献金をささげる人々の姿でした。多くの金持ちが次々と、多額の献金をさいせん箱に投げ入れていました。当時は、富も神さまの祝福のしるしと考えられていましたから、自分がどれほど献げているかが人目に分かるようにする人もいたようです。
そこへ、ひとりの貧しいやもめが近づき、レプタ二つを献げました。レプタは当時の最も小さな通貨で、価値としてはごくわずかなものでした。人の目から見れば、取るに足らない献げ物だったでしょう。
しかしこのやもめは、自分が持っている中で献げることのできる精いっぱいを、人目を気にすることなく、神さまだけに心を向けてささげていました。そこには、見かけや評価に左右されない、ただ神さまへの信仰に基づく献げ方がありました。
彼女にとって大切だったのは、自分が富んでいるか貧しいかではありませんでした。献げるという行為を通して、神さまと向き合い、神さまがそれを受けとめてくださると信じる、その信仰そのものが何より大切だったのです。
マタイによる福音書6章11節を見ますと、イエス様は、主の祈りの中で、
6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
と祈るように教えられました。この祈りは、「明日の分までまとめてではなく、今日一日分の必要を、今日お与えください」という意味です。神さまが、その日その日に必要なものを、最もよいかたちで与えてくださると信頼して歩むように、イエス様は教えておられるのです。
誤解しないでいただきたいのは、ここで私たちに「生活費のすべてを献げなさい」と勧められているわけではない、ということです。問題にされているのは金額ではありません。
神さまへの信頼を献げているかどうか、そして、日々の必要を満たしてくださる神さまに心を委ねて生きているかどうかが問われているのです。
二レプタを献げたやもめの姿は、そのような信仰を私たちに示しています。彼女は、自分の持ち物の多い少ないではなく、神さまを信頼しきって生きる姿勢をもって献げました。
私たちもまた、このやもめのように、神さまに信頼して歩む信仰に立っているかどうかを、ここで問われているのです。
3、神の目による評価
私たちは、いつも自分の基準で人を見て生きています。
人と比べては優越感を覚えたり、劣等感に悩んだりしながら、人を評価し、人に期待してきました。
信仰を与えられても、そのような「人を気にする目」は、すぐには消えません。人との関係に振り回される歩みから、完全に切り離されることは難しいのです。
もちろん、人を思いやり、周囲との調和を大切にすること自体は、決して悪いことではありません。
しかし、「人からどう見られているか」「よく思われているか」「評価されているか」が、行動の中心になってしまうと、信仰があってもなくても、すべてが人目を気にした生き方になってしまいます。
信仰者の場合、それは、人目を気にして祈り、人目を気にして奉仕し、人目を気にして献金をささげる、という形で現れます。
心のどこかに、「誰かに見られたい」「認められたい」「褒められたい」という思いが入り込んでしまうのです。
しかし、イエス様を信じて救われた私たちは、すでに知っています。
イエス様が、私たち一人ひとりの罪のために十字架にかかり、そのいのちをささげてくださったこと。
神さまが、私たちを無条件に愛してくださっていることをです。
その神さまが私たちに望んでおられるのは、「神さまを愛し、隣り人を愛する」ことです。
この二つを生きることによって、私たちは神さまの前に「良い忠実なしもべ」とされるのです。
私たちの評価基準は、人の目ではありません。神さまの目です。
人と比べる必要もありません。人を裁く必要もありません。さばきは神さまがなさることです。
イエス様によって私たちは、人を基準にして神さまを見る生き方から、神さまを基準にして人を見る生き方へと導かれました。人の目ではなく、神さまの前に立って、この世を生きる者とされたのです。
また、イエス様を信じる者には、教会が与えられています。教会は、神さまから受けた愛を、実際に生きる場です。あの人も、この人も、イエス様が愛された大切な一人ひとりであることを覚えながら、イエス様を仲立ちとして互いを見る訓練と実践の場、それが教会です。
ここで、ヨハネの第一の手紙4章11節を読みます。
4:11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
さらにイエス様は、貧しいやもめの献金を通して、礼拝とは何かを教えられました。
旧約の時代、礼拝は動物の犠牲や供え物によって、「自分をささげること」として示されていました。新約の時代になっても、その本質は変わっていません。ただ、形が見えにくくなっただけなのです。
礼拝とは、まず慰めや祝福を受け取るためのものではありません。
神さまの前に、自分の思い、自分の体、自分の時間を差し出し、すべてをお献げすることです。その結果として、神さまは御言葉をもって私たちを慰め、励まし、必要な祝福と助けを与えてくださいます。
神さまは、ひとり子イエス様をこの世に遣わし、私たちすべての罪の身代わりとして、十字架で罰を受けさせてくださいました。そしてイエス様は、葬られ、三日目によみがえられました。この救いを信じる者は、罪を赦され、天の御国の約束を与えられます。
神さまは、まず私たちに、最高の愛を示してくださいました。だからこそ私たちは、喜んで神さまを礼拝し、自分の思いも、体も、時間も、すべてをお献げして生きるのです。
もう一度、ヨハネの第一の手紙4章11節を読みます。
4:11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
ですから、私たちは人の目を気にする生き方から離れ、神さまの目を意識して、神さまを愛し、互いに愛することに心を向けていきましょう。
偽善の信仰者とならないように、神さまの前に自分自身を差し出す礼拝者として歩んでいきたいのです。
貧しいやもめの信仰にならいましょう。
そして、まだイエス様を信じておられない方は、どうかこのイエス様を信じ、その愛を知ってください。そこから、人と比べる歩みから解放される新しい人生が始まります。
2026年8月16日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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