ショートメッセージ【使徒ヨハネ②】
マルコによる福音書14章17-21節
マルコによる福音書42-49節
ヨハネによる福音書13章23-26節、他
(ヨハネの目線:ユダに注がれた愛)
1、食事の席でユダに示された愛
2、捕らえられる直前にユダに示された愛
前回も見たように、聖書はイエス様の愛を信じ、その愛を心から受けとったヨハネ(使徒)を通して、私たちにもその愛を伝えようとしています。
そのヨハネの目を通して、イエス様がどのように人々を愛されたのかを見ていきましょう。
特に今回は、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダに注がれた愛に目を向けていきます。
聖書には、イスカリオテのユダがイエス様を裏切ったという事実が、明確に記されています(マルコ3章19節、ルカ6章16節、他)。イエス様は、ユダが裏切ることをご存知でした。ここで、マタイによる福音書26章21節と25節を読みます。
26:21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
26:25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
イエス様は、ユダがご自分を裏切ることを知っていながらも、そのユダに変わらず愛を注がれました。
1、食事の席でユダに示された愛
マルコによる福音書14章17-21節を読みます。
14:17 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。
14:18 そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。
14:19 弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
14:20 イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。
14:21 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
この場面は、「最後の晩餐」と呼ばれる、イエス様が十字架にかかる前の晩の食事の場面です。弟子たちとともに床に横たわるスタイルで過越の食事をとられている中、イエス様は《あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。》と語られました。
弟子たちは驚き、《「まさか、わたしではないでしょう」》と口々に言います。しかしユダだけは、すでに宗教指導者たちと密かにイエス様を引き渡す相談をしていたので、内心大きく動揺したことでしょう。
イエス様はさらに、《「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。》と言われました。(ここで「パン」と訳されていることばの原語の意味は「食べ物」です)。
当時のユダヤの人々は香料の入ったソースのようなものを入れた鉢を備えて、近くにいる数人が共同でその鉢を使って、その中にパンや食べ物を浸して食する習慣があったようです。今でいえば、ドレッシングやマヨネーズ、バターを共有する感じでしょうか。
マタイは、ここでイエス様が、ユダにあなたが裏切ると明言したように記しています(マタイ26章25節)。またヨハネは、イエス様が、ユダに対してパン切れを浸して渡すことで裏切ることを示したと記しています(ヨハネ13章26-27節)。しかし、この時、弟子たちはだれも、ユダが裏切るということを悟ってはいませんでした。
ルカによる福音書22章23節には、
22:23 弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。
とあります(ヨハネ13章28-29節も)。他の弟子たちは皆、「まさか私ではないでしょう」「もし自分だったらどうしよう」との思いで、まったく周りのことを見る余裕がなかったのか、また、イエス様がユダにだけ聞こえるように小さな声で言われたのか、分かりませんが、とにかく他の弟子たちは気づいていなかったのです。
《裏切る》と訳されている元の言葉は、本来“引き渡す”という意味です。そのため、言葉の違いから正しく理解できなかった可能性があります。
いずれにしても弟子たちは、誰ひとり騒いだり、ユダを責めたり、彼を捕らえて連れて行こうとするような行動はとりませんでした。
このとき、ユダだけがイエス様を裏切ろうと心に決めていたこと、そしてそのことをイエス様がそれとなく示しておられたことは、弟子たちにも伝わっていたはずです。
そう考えると、イエス様は、ユダにだけ分かるような形で、つまり「私はあなたの心を知っていますよ」と伝えながらも、ほかの弟子たちが気づいて混乱したりしないように配慮しておられたのではないでしょうか。
そしてユダが、他の弟子たちに知られることなく、もとの仲間として立ち返ることができるように、静かにその場を整え、導いておられたのだと私は思います。
イエス様はこの時点でも、ユダが自分から悔い改めて戻ってくることができるように、道を開いておられました。裏切ろうとしているユダに対しても、あきらめずに愛を注ぎ、受け入れようとしておられるのです。
ところで、ヨハネによる福音書によれば、この時ヨハネは、イエス様のすぐそばで食事をしていました。
ヨハネによる福音書13章23-26節を読みます。
13:23 弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。
13:24 そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
13:25 その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、
13:26 イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
13章23節《イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。》13章25節《その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、》とあり、ヨハネは、イエス様のすぐ近くにいただけではなく、イエス様の胸によりかかるようにしていたのです。
イエス様の愛を受け入れ、その愛に信頼し、委ねきっているヨハネの姿が記されています。
このとき、ヨハネはすぐ近くにいたのに、イエス様とユダとのやりとりに本当に気づかなかったのでしょうか?
それははっきりとは分かりません。
もし気づいていたとすれば、イエス様がユダや他の弟子たちに対して配慮し、深い愛をもって接しておられるのを感じて、あえて何も言わず静かにしていたのかもしれません。
また、もしその時は気づかなかったとしても、あとでユダが裏切ったと知ったとき、あのときのイエス様とユダの様子を思い出し、ユダに向けられていたイエス様の愛の深さを感じたに違いありません。
どちらの場合でも、ヨハネはイエス様の愛を深く知る者となり、その愛をますます信頼し、人々に伝える使命を担うようになったのです。
2、捕らえられる直前にユダに示された愛
マルコによる福音書14章42-49節を読みます。
14:42 立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
14:44 イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。
14:45 彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々はイエスに手をかけてつかまえた。
14:47 すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。
14:48 イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。
14:49 わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。
ゲッセマネでの祈りを終えたイエス様が弟子たちの所に戻って、声をお掛けになった所に、十二弟子のひとり、ユダが進み寄ってきました。彼は、また、祭司長、律法学者、長老たちから送られた、剣と棒とを持った群衆を引き連れていました。
イエス様は、堂々とまた落ち着いて、捕えにきた人々に対して言われます。《「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。》と語られ、聖書の預言がそのとおりになるためであると分かっておられます。つまり、このイエス様の捕らえられたことは、神さまのご計画なのです。ですから、「あなたがたはその神のご計画によって動かされているのです。」と落ち着いて、またはっきりとそして諭すように言われています。
この時イエス様は、ユダに対しても語られたものと受け取れます。
マタイによる福音書では、実際イエス様はユダに《友よ》と声をかけておられます。その場面のマタイによる福音書26章50節を読みます。
26:50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
この《友よ》という言葉に、なおユダを招き続けるイエス様の愛と憐れみが込められているのです。
ヨハネによる福音書18章8節を読みます。
18:8 イエスは答えられた、「わたしがそれであると、言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」。
イエス様は、《「わたしがそれであると、言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」。》と、ご自身の命を差し出してまで彼らを守ろうとされました。ヨハネは、このように弟子たちを守られたことを記しています。この事は以前、弟子たちに約束されていたことでした。
ヨハネによる福音書6章39節と17章12節を読みます。
6:39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
17:12 わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。
このように、イエス様の愛は、ユダに対しても、他の弟子たちに対しても、そして私たち一人ひとりに対しても、変わらず注がれ続けています。
イエス様は、自分を裏切ろうとしている者にさえも愛をもって接されました。この愛は今も変わらずに、私たちに向けられています。
イエス様に愛された者になるかどうかは、私たちがその愛を「受け取るかどうか」にかかっています。
ヨハネはその愛を信じ、委ね、証しする者となりました。
私たちもまた、その愛を信じ、日々の歩みの中でそれを証しする者として整えられていきたいのです。
2025年7月3日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神の導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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