素直に読む【ヨハネの黙示録_26】

ヨハネの黙示録19章1-21節
「アァメン、ハレルヤ」

〈はじめに〉
 今回のヨハネの黙示録19章2節には、《そのさばきは、真実で正しい。》と書かれています。この言葉の通りに、16章から続く場面を通して、神さまが寸分の狂いもなく、すべてを最もふさわしい時に、正しく裁いてこられたことが示されていました。
 そして19章に入ると、天の大勢の人々が大きな声で賛美をささげている様子が描かれています。その光景は、1節から6節にかけて記されています。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録19章1-6節を読みます。

19:1 この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、
19:2 そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を/彼女になさったからである」。
19:3 再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。
19:4 すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、「アァメン、ハレルヤ」。
19:5 その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。
19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。

 これまでも、神さまの勝利をたたえる賛美の場面がいくつもありました。しかし、ここで天に響く大きな賛美の声は、神さまの裁きが実際に行われ、その正しさと完全さを目の当たりにした後のものです。
 すべての救われるべき人は救われ、滅ぼされるべきものは完全に滅ぼされた、その光景を見た人々が、心からの喜びと感謝をもって、精いっぱいの声で神さまを賛美しているのです。これ以上ないほど壮大で力強い賛美です。

 聖徒たちを苦しめ、命さえも奪った「大淫婦」(それはサタンに支配され、神さまに逆らうこの世の権力や華やかに見える繁栄、富を象徴する存在)が、ついに裁かれ、永遠に焼かれて煙が立ちのぼっています。
 もはや、教会や聖徒たちを苦しめることは二度とありません。
 その様子を見て、旧約と新約の信仰者を代表する24人の長老たちと、ケルビム(神さまに仕える御使いたち)が再び声を合わせて、《「アァメン、ハレルヤ」。》と神さまを力強く賛美します。

 ちなみに《ハレルヤ》=「主を褒めたたえよ」という言葉は、新約聖書の中ではこのヨハネの黙示録19章にしか登場しません。
 この場面は特別なものであり、神さまの裁きの正しさと完全さ(その時期も方法も、救いも滅びもすべてが完璧)を見た者たちが、自然と「ハレルヤ」と声高らかに賛美したくなる場面なのです。

 そして、ケルビムもしくは御使いのひとりと思われる者が、神さまの御座から次のように呼びかけます。
 《「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。》と。

 神さまの前では、信仰者もケルビムも御使いも、みな同じように神さまの前にひれ伏し、心から神さまをほめたたえるのです。
 そして、ヨハネは天の大群衆の大歓声を聞きます。その歓声はまるで雷鳴や大爆発のような響きで、その理由がこのあとの7節以降に示されていきます。
 ヨハネの黙示録19章7-10節を読みます。

19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
19:9 それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
19:10 そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。

 ユダヤの結婚には決まった順序があります。最初に「婚約」が行われます。この時点で、法的にはすでに夫婦とみなされますが、実際に一緒に暮らすまでには「中間の期間」があります。この間、花婿は結婚の準備として「結納」を納めます。それは金品の場合もありましたが、自分の労働で支払うこともありました。たとえば、旧約聖書のヤコブがラバンのために長年働いたのは、この結納にあたります。

 イエス様も、私たちと同じようにこの世に来てくださり、教会と婚約してくださいました。そして、十字架にかかって命をささげることで、結納をしてくださったのです。
 その後、イエス様は天に昇られ、今に至るまで「中間期」が続いてきたのです。

 そして今、いよいよイエス様が、婚約した教会を迎えに来てくださる時が来たのです。結婚が成立すれば、花嫁である教会は、花婿であるイエス様と、これからずっと一緒に過ごすことになります。
 このことこそが、天で大きな歓喜の声が響き渡っている理由なのです。

 聖徒たちが身にまとう、汚れのない麻布は、《聖徒たちの正しい行い》と言われています。しかし、それは自分の努力や頑張りで正しくなろうとすることではありません。律法(決まりごと)を守ることによってではなく、「信仰によって神さまに正しいと認められる」のです(ガラテヤ人への手紙3章11節 参照)。

 私たちは花嫁として、教会というキリストの体の一つひとつの部分(器官)です。
 教会の一員として、兄弟姉妹と共に歩みながら、キリスト様に似た者へと成長していきます。
 御言葉を受け入れ、イエス様に忠実に従い続けること。そして、教会につながり、時には兄弟姉妹とぶつかることがあっても、その中で互いに愛し合うことを学び、共に成長していくこと、これこそが、イエス様を待つ「中間時代」に、花嫁として整えられていく歩み、いわば「花嫁修行」なのです。

 花嫁が「教会」である私たちのことを指しているとすれば、「婚姻に招かれた者」とは、いったい誰のことでしょうか。

 それはまず、旧約の時代に神さまを信じ、やがて来られる救い主を心から待ち望んでいた信仰者たちだと考えられます。彼らは、時代を超えて、このとき救い主であるイエス様の救いにあずかることができたのです。
 また、もう一つの可能性として、患難の時代(終末の厳しい時)を通って、ぎりぎりのタイミングでイエス様に救われた人たち。つまり、救いの「礼服」であるイエス様を身にまとうことを許された信仰者たちであるとも考えられます。あるいは、その両方かもしれません。

 いずれにしても、この婚宴の場に招かれ、出席を許された者たちは、身分や時代に関係なく、誰一人漏れることなく神さまの祝福にあずかるのです。

 この時点では、まだすべての裁きは終わっていません。けれども、黙示録16章17節で神さまは《「事はすでに成った」》と語られており、ご自身の目には、勝利と裁きはすでに完成したものとして見ておられるのです。
 神さまはその上で、著者ヨハネを通して私たちに、“結婚の備え”の必要を告げておられます。

 このような希望に満ちた光景を目の当たりにして、ヨハネは喜びのあまり、思わずケルビム(御使い)と思われる者を拝もうとしますが、それは止められます。
 5節にあるように、礼拝と賛美はただ神さまにのみささげるべきものであり、誰もが神さまだけをあがめるのです。
 マタイによる福音書4章10節の《『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』》の通りです。

 黙示録19章10節の《イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。》というのは、つまり、「本当の預言」とは、ご聖霊によって与えられたものであり、それは聖書全体にも当てはまります。そして、その聖書が語っている中心の内容は、イエス様がどのようなお方であるかということ、つまり「イエス様についての証し」です。
 そして、そのイエス様ご自身が、《ただ神だけを拝しなさい。》とおっしゃっているのです。
 ヨハネの黙示録19章11-16節を読みます。

19:11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
19:13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
19:14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
19:15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。

 11節で、ヨハネは天が開かれるのを見ます。まるで舞台の幕が開くようにして、そこに一頭の白い馬が現れます。その馬に乗っていたのは《「忠実で真実な者」》と呼ばれるイエス様でした。
 この方の姿は、まさに正義によって戦う真の王、正義の戦士のようです。
 イエス様の目は、正しい怒りによって燃える炎のようで、頭にはたくさんの冠がありました。これは、あらゆる戦いに勝利し、すべてを治める王であることを表しているのでしょう。

 また、「誰も知らない名がその身に記されていた」とあります。これは16節にある《「王の王、主の主」》という御名を表す、神さまにしかわからない神秘的な名であると考えられます。
 さらに13節には《「神の言」》とも呼ばれていたとあります。ヨハネによる福音書1章1節にも《言は神であった。》と記されているように、このお方こそ、まことの神さま《「王の王、主の主」》であることがここで示されています。

 つまり、ここで私たちは“名前”そのものではなく、その方がどのようなお方であるかということ、完全に義なる方が私たちの王であり神さまであることを、しっかり心にとめるように教えられているのです。

 また、19章13節のイエス様がまとっておられる《血染めの衣》は、敵に対するさばき、つまり滅ぼされる者たちの血を象徴しています。これは、完全な勝利が間近にあることのしるしです。
 そして天の軍勢もすでに整えられ、小羊(イエス様)と花嫁(教会)の婚姻を妨げるすべてのものを取り除くための、最後のさばき、すなわち《全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。》時が来ようとしています。

 すべての悪が取り除かれ、婚姻にふさわしい“きよい”場が整えられる。それが、今ここで語られている“婚姻の準備が整った”ということなのです。
 ヨハネの黙示録19章17-21節を読みます。

19:17 また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。
19:18 そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ」。
19:19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。
19:20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
19:21 それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。

 太陽の中に立っていた御使いが、大きな声で叫ぶとき、いよいよ「大掃除」とも言える、最後のさばきが始まります。
 《太陽の中に立っていた。》という表現は、神さまの正しさと聖さ、つまり“義なるさばき”の象徴として描かれているのでしょう。

 ここに出てくる鳥たちは、イエス様が再び来られる時の様子について語られた、《死体のあるところには、はげたかが集まるものである。》(マタイ24章28節)という御言葉と重なります。
 つまり、これは神さまに逆らった者たちが完全に打ち倒され、地上にその死体が満ち、その上に鳥たちが集まってくるという、厳しい光景です。

 この場面は19章17節で《神の大宴会》とも表現されていますが、それは神さまが悪を完全にさばかれた結果、鳥たちがその死体を食べる様子を指しているのです。
 これは旧約聖書のエゼキエル書39章17-20節に書かれている預言が、ここで実現しているとも理解できます。

39:17 主なる神はこう言われる、人の子よ、諸種の鳥と野の獣とに言え、みな集まってこい。わたしがおまえたちのために供えた犠牲、すなわちイスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まり、その肉を食い、その血を飲め。
39:18 おまえたちは勇士の肉を食い、地の君たちの血を飲め。雄羊、小羊、雄やぎ、雄牛などすべてバシャンの肥えた獣を食え。
39:19 わたしがおまえたちのために供えた犠牲は、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲め。
39:20 おまえたちはわが食卓について馬と、騎手と、勇士と、もろもろの戦士とを飽きるほど食べると、主なる神は言われる。

 ヨハネの黙示録19章19-20節の《獣》《にせ預言者》については、他の者たちと違って、死んでからではなく、《生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。》と記されています。これは、彼らの罪の重大さと、神さまの厳しい裁きを強く示しているのです。

 これまで私たちは、15-16章で“獣の刻印を受けた者たちの最後”について学びました。また、17章以降では“大淫婦バビロンの滅亡”を見てきました。そして今回の箇所では、“獣とにせ預言者への勝利” をみました。

 このようにして、残るのはサタンただ一人となりました。
 神さまがサタンを完全に滅ぼされるにあたっては、ほんの少しの見逃しもなく、すべてを徹底的にさばかれるのです。
 まずは、サタンの手先となっていた獣に従った人々、サタンの土台であった「大バビロン」、そしてサタンの働きを担っていた獣やにせ預言者など、サタンに従っていたすべてのものが取り除かれます。

 その上で、最後にサタン自身に対して裁きが下されます。
 このように、神さまの裁きは完全であり、ひとつひとつ順序立てて、すべてが正しく行われていくのです。

〈まとめ〉
 今回の箇所を通して、私たちはあらためて、全能の神さまがどれほど正しく、完全に義なるお方であるかを見せられました。
 たとえ反キリストがどれだけ多くの力を集めて立ち向かってきても、またサタン自身でさえも、神さまにはまったく敵わない、そのことがはっきりと示されています。
 ですから私たちは、ヨハネが見たこの幻とともに、ローマ人への手紙8章31-39節の言葉を心に留める者でありたいと願わされます。

 しかし、私たちはどれほど神さまの全能の力を知っているつもりでも、自分の思い通りにならない時や、弱さを感じる時には、サタンのささやきに惑わされてしまうことがあります。
 落ち込んでしまい、「もうだめだ」と感じてしまうとき、神さまの力が自分には働いていないように思え、世に負けたような気持ちになることもあります。
 そしてつい、「主よ、どうか助けてください…」とため息まじりに心の中でつぶやいてしまうのです。

 しかし今回、私たちは全能の神さまがどれほど完全で正しい裁きをなさる方かを、見ました。
 その裁きを目撃した天の大群衆が声をそろえて賛美します。
 《「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。》(ヨハネの黙示録19章16節b-17節)

 ヨハネはその賛美を、はっきりと耳にしました。《「アァメン、ハレルヤ」。》なんと力強い賛美でしょう。

 サタンでさえも敵わないお方が、私たちの味方なのです。
 イエス様が、花嫁である私たち教会を迎え入れ、ともに永遠に暮らしてくださる時が来る。その喜びが《「アァメン、ハレルヤ」。》という賛美となって表れているのです。

 私たちが従っている主は、《「王の王、主の主」》、つまり、すべての王の上に立つ真の王、すべての主の上に立つまことの主です。
 このお方こそ、最高の王であり、最高の主人なのです。

 だから、もうすべての疑いを捨てて、このお方を信じ、より頼みましょう。なぜなら、《「これらは、神の真実の言葉である」》からです。

2025年7月18日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_25】
タイトル:「アァメン、ハレルヤ」
牧師:香川尚徳