ショートメッセージ【使徒ヨハネ③】

ヨハネによる福音書14章16-17節
ヨハネによる福音書17章6節
ヨハネによる福音書21章9-14節、他

(ヨハネの目線:弟子たちに注がれた愛)

1、弟子たちを神さまに委ねられたイエス様
2、弟子たちを愛し通されたイエス様
3、生活のすべてにかかわってくださるイエス様

1、弟子たちを神さまに委ねられたイエス様
 ヨハネによる福音書14章16-17節を読みます。

14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

 このとき、イエス様は父なる神さまのご計画に従い、全人類の罪を負い、その罰として十字架へ向かっておられました。
 その“十字架”とは、人々に罪の赦しを得させるために、イエス様ご自身が私たちの身代わりとなり、“いのち”を“おささげ”くださることによって、神さまへの背きの罪が赦されることです。イエス様は、“十字架”の道を避けることはなさいませんでした。
 そして、その時が迫ったある日、弟子たち一人ひとりに助け主であるご聖霊が下されることを伝えたのがこのお言葉です。

 この言葉は、これからの弟子たちの歩みと成長、すなわち彼らの導きを、父なる神の御手にゆだねていくという意味をも含んでいました。

 もちろんイエス様は、最初からこのことを心に決めておられ、そこに迷いはありませんでした。
 しかし、弟子たちはまだ信仰の訓練の途中にあり、これから彼らに降りかかる試練や、サタンの攻撃のことを思うと、イエス様としては「もう少しそばで訓練を続けたい」という思いもあったと考えられます。

 イエス様が十字架にかかることで救いの御業は完成しますが、その出来事と意味を正しく理解し、それを伝える者たち、すなわち、弟子たちの働きがなければ、神さまの救いのご計画は地上に広がっていきません。
 もし弟子たちが途中で信仰を失ってしまえば、イエス様がこれから十字架で成し遂げようとされる救いの業も、伝えられることなく終わってしまうかもしれないのです。

 それでも、イエス様はやがて十字架で死なれ、復活されたあとには、弟子たちのもとを離れて、父なる神さまのもとへ帰らなければなりませんでした。
 このあと、イエス様が捕らえられる場面では、弟子たちはイエス様との関係を否定してしまう弱さを見せます。弟子たちのそのような未熟で頼りない姿が描かれています。

 しかし、そんな弟子たちであっても、イエス様は、これからの導きを父なる神さまと、父なる神さまによって遣わされるご聖霊に委ねるしかありませんでした。
 だからこそイエス様は、思いを切り替え、すべてを父なる神さまとその御言葉に委ねる決心をされていたのだと思います。

 ヨハネによる福音書14章16-17節の言葉を、そのようなイエス様の思いや、弟子たちへの深い愛を込めた言葉として味わうとき、イエス様の愛の深さがよりいっそう心に染み込んできます。

2、弟子たちを愛し通されたイエス様
 イエス様は、ご自身が十字架に架かられることで、弟子たちが、狼狽し、うろたえて弱さに覆われる姿をご存知でした。それを承知の上で、そんな弟子たちを神さまから託された大切な、なくてはならない存在として受けとめられていました。
 イエス様は、弟子たちを、父なる神さまのものとみておられました。
 ヨハネによる福音書17章6節を読みます。

17:6 わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。

 《彼らはあなたのもの》というのは、父なる神さまが、何があっても最後まで責任を持って彼らを育て、励まし、悪しき者の手から守られること、そして彼らに与えられた使命を果たすように導かれることをイエス様は確信されているということです。

 今は頼りなく危うい所が見える弟子たちであっても、「私が十字架で贖いの“わざ”を成し遂げ、聖霊が遣わされた後には、神さまの弟子として忠実な働きをする者になる」ということなのです。

 このようにイエス様は、そんな彼らを最後の最後まで愛し通されました。神さまからご自分に与えられた存在として、何があっても見捨てないで、最後まで向き合ってくださったのでした。
 ヨハネによる福音書13章1節を読みます。

13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。

 イエス様は、弟子たちを父なる神さまとの深い交わりの中に招き入れてくださいました。そして、たとえ弟子たちが弱さを見せたり、失敗したりしても、決して見捨てることなく、いつも忍耐強く待ち続け、神さまに属する者として歩めるように、ずっと助けの手を差し伸べてくださったのです。
 ヨハネの第一の手紙1章3節を読みます。

1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

 ヨハネは、後にこのように言っています。これは、この時の弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人に与えられる神さまの愛の証しです。ヨハネは自身が受けたこの愛をよく理解していました。

3、生活のすべてにかかわってくださるイエス様
 使徒行伝1章3節を読みます。

1:3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

 イエス様は苦しみを受けて十字架で死なれ葬られた後3日目によみがえられました。その後弟子たちの前に現れて、天の父なる神さまのもとに帰る前に40日間弟子たちのために特別なレッスンをされました。
 ヨハネによる福音書21章9-14節を読みます。

21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

 この場面は、ガリラヤ湖畔でイエス様が、弟子たちの前に現れた3回目となる場面です。

 弟子たちが岸に着くと、そこにはすでに炭火がたかれ、その上に魚が焼かれていて、パンも用意されていました。
 イエス様は、これまですでに2回、弟子たちにご自身の復活した姿を現しておられました。それだけでも十分と思えるほどでしたが、今回さらにもう一度、弟子たちの前に現れてくださったのです。

 おそらく弟子たちの信仰状態を知って、イエス様は必要な励ましを与えようと考えてこのようにされたのでしょう。
 弟子たちの中には、イエス様が捕まった時に、イエス様を置いて逃げてしまったこと、その失敗への後悔とやるせなさが傷として残っていたと考えられます。
 ここで、マルコによる福音書14章31節を読みます。

14:31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。

 この場面は、「最後の晩餐」のあと、イエス様と弟子たちがオリーブ山に向かう途中の出来事です。
 その前の14章27節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。
 《あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。》
 この言葉に対してペテロは、力強くこう答えました。
 《「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。》すると他の弟子たちも、口々に同じようなことを言ったのです。

 でもその後、実際にはどうだったでしょうか。
 弟子たちはイエス様を「知らない」と否定し、恐れて逃げてしまいました。
 自分たちが語ったあの言葉と、その後の行動とのギャップ…。
 そのことが弟子たちの心に深く残っていたに違いありません。

 弟子たちの心には、「恥ずかしさ」「後悔」「恐れ」が入り混じっていたことでしょう。
つまり、自分自身を責める気持ちと、神さまとの関係においても心が打ちひしがれるような状態だったのです。

 イエス様は、そんな彼らの心の傷や痛みが、今後の信仰の妨げになることをご存知でした。
だからこそ、彼らの心を癒やし、立ち上がらせ、励ますためにご自身が彼らのもとに来られたのです。

 その思いが表れているのが、このあと、イエス様がペテロに《わたしを愛するか》と三度問いかけた場面です。
 これは、ペテロを責めるためではなく、彼を回復し、再び信仰の道に立たせるための愛の問いかけでした。

 また、イエス様は復活後、弟子たちのために朝食を用意されました。
 それはただの食事ではなく、信仰の再出発を共にするための交わりの時間でもありました。
 イエス様が天に戻られたあと、聖霊が弟子たちに与えられるまでの間、彼らが信仰に踏みとどまり、「どんな時でもイエス様が共にいてくださる」という確信を持てるようにとの配慮がそこにあったのです。

 信仰の歩みの中で、私たちも疲れたり、心が揺れたり、不安になることがあります。
 そんなとき、イエス様が日々の生活のただ中において共におられ、必要を満たしてくださることを確信できるなら、それは大きな慰めと力になります。

 イエス様は、弟子たちに《「今とった魚を少し持ってきなさい」。》と言われました。
 それは、すべてをご自身で用意されていたにもかかわらず、弟子たちが自分たちで得たものをも受け取り、共に用いてくださったのです。
 これは、イエス様が一方的にすべてを与える方ではなく、私たちが信仰をもって労苦し、努力して得たものさえも、共に喜び用いてくださるということを表しています。

 信仰の歩みの中で、どんな経験も決して無駄にはなりません。
 私たちの苦労も、悲しみも、痛みも、すべてを益として神さまは用いてくださるのです。

 使徒ヨハネは、自分がイエス様から受けた愛を、福音書の中で惜しみなく伝えています。
 その愛は、あのときの弟子たちだけに向けられたものではなく、今もイエス様を信じるすべての人に、注がれ続けている愛なのです。

2025年7月13日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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