ショートメッセージ【使徒ヨハネ①】

マタイによる福音書4章21-22節
マルコによる福音書3章17節
ルカによる福音書9章53-54節、他

(主に愛されたヨハネ)

1、使徒ヨハネ
2、愛された弟子
3、愛を受け入れるヨハネ

 今回から4週にわたってイエス様の弟子の一人であるヨハネを見ていきます。

1、使徒ヨハネ
 マタイによる福音書4章21-22節を読みます。

4:21 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、
4:22 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。

 ヨハネはイエス様からから招かれて、すぐに従って弟子となりました。マタイによる福音書は、ペテロとアンデレがイエス様の弟子になったすぐ後に、ヨハネが兄弟ヤコブとともにイエス様の弟子になったことが記しています。

 使徒というのは、キリストの復活の証人として福音を宣べ伝えるために選ばれたイエス様の12人の弟子を言いあらわす言葉です。通常12弟子を指して用いられます。しかし、キリストの復活の証人ということではパウロを含めて言われることもあり、またもっと広い意味で使われる場合もあります。
 使徒ヨハネという呼び方は、救い主イエス様が来られることを世に知らしめた、バプテスマのヨハネと区別する意味で用いられています。
 ここで、ヨハネの気性について見てみましょう。
 まず、マルコによる福音書3章17節を読みます。

3:17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

 イエス様が雷の子とあだ名をつけるほどに、ヨハネの気性の激しさ、荒々しいところがあったようです。
 次に、ルカによる福音書9章53-54節を読みます。

9:53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。
9:54 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。

 イエス様を受け入れようとしないサマリヤの人々に対してのヨハネとヤコブの発言が記されています。

2、愛された弟子
 ヨハネによる福音書13章23節を読みます。

13:23 弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。

 この福音書の中には、《イエスの愛しておられた者》という表現ですが、他に、《イエスの愛しておられた弟子》という表現が2回あります。これは、福音書の著者である使徒ヨハネ自身を指すものと理解されています。
 ヨハネは、イエス様の生涯の重要な場面にたびたび同席しており、特別な関係が与えられていたことがわかります。たとえば、イエス様が御姿を変えられた山(いわゆる変貌山)では、ペテロとヤコブとともに立ち会っていました。また、ゲッセマネの園でのイエス様の深い祈りの時にも、そばにいることを許されています。

 さらにイエス様は、ご自身が十字架にかけられる直前、母マリヤをヨハネに託されました。
 ヨハネによる福音書19章27節を読みます。

19:27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

 これは単に生活の面倒を見させるということ以上に、信仰における深い霊的なつながりと責任を委ねられた出来事であると考えられます。

 このように、ヨハネが他の弟子たちにはなかったような経験を多く与えられていたことは明らかです。そして彼が、イエス様から深く愛されていたことも疑いありません。ただし、ヨハネ自身が「イエスに愛された弟子」と自ら記していることから、一部の解釈では「感情表現の強い、やや自己中心的な人物であった」といった評価がなされることもあります。

 しかし私は、そうした見方は聖書が本当に伝えようとしているメッセージを見誤っていると思います。重要なのは、イエス様が「誰をどれだけ愛したか」ではなく、「その愛をどう受け取ったか」という点にあります。
 ヨハネによる福音書20章2節でも、再び「イエスの愛しておられた弟子」という表現が登場します。

20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。

 この節からも分かるように、イエス様の愛は特定の弟子に限ったものではなく、すべての弟子たちに等しく注がれていました。そしてヨハネは、その愛を深く受け取り、心に刻み、記すことができた弟子だったのです。彼の記述は、自分を誇るためではなく、神さまの愛の深さを証しするためだったと私は信じています。

3、愛を受け入れるヨハネ
 マタイによる福音書20章20-21節を読みます。

20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。

 ここに出てくる《ゼベダイの子らの母》は、使徒となるヨハネとその兄ヤコブの母親です。
 彼女は、イエス様に対して、御国が来たときに自分の息子たちが右と左、つまり最も栄誉ある場所に座れるようにと願い出ます。さらに分かりやすく言いますと、「息子たち二人をあなたの右大臣と左大臣にして欲しい」という願いでした。

 これは、母親としての愛情深い願いであると同時に、子どもたちの将来を心から案じている様子が伝わってきます。

 しかし注目すべきなのは、この願いに対してヨハネとヤコブがどう関わっていたかという点です。彼らはすでに大人であり、しかも弟子の中でも気性の強さで知られていました。当時の社会背景を考えれば、女性の立場は弱く、公の場で発言すること自体が簡単ではありません。ですから本来なら、息子たちが「自分たちの願いは自分で伝える」と母親を制する場面でもおかしくないのです。

 ところが、聖書の記述では、彼らは母親に付き添い、共にその場にいたことがわかります。これは、ヨハネとヤコブが、母の愛情を恥じることなく受け入れていたことを示しています。彼らは、母の愛を拒まず、素直に感謝していたのでしょう。
 つまり、ヨハネとヤコブは“愛に飢えていた”わけではありません。むしろ、愛されていることを自然に受け入れ、それに信頼することができる人たちでした。

 特にヨハネは、イエス様の愛を深く理解し、それを心から受け入れることができた弟子でした。だからこそ、彼は自らを《イエスの愛しておられた弟子》と記すことに違和感がなかったのです。これは誇りや自慢ではなく、イエス様の愛への深い信頼と感謝から出た自然な表現でした。

 もしペテロの特徴が「行動の素直さ」だとすれば、ヨハネの特徴は「愛に対する素直さ」と言えるでしょう。
 ヨハネは、イエス様の愛の高さ・深さ・広さ・大きさをよく知り、その愛に全幅の信頼を寄せていたのです。
 ヨハネによる福音書21章4-7節を読みます。

21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。

 ここでヨハネは弟子たちの中でいち早く、復活されたイエス様が来られていることを悟っています。
 次にイエス様の復活の朝のことを見ます。ヨハネによる福音書20章1-9節です。

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

 20章8節の《もうひとりの弟子》は、同じ8節の《これを見て信じた。》とありますが、9節を見るとイエス様のよみがえり(復活)を悟り、それを信じたのではないのです。少し残念にも思いますが、ヨハネがペテロや他の弟子たちと比べて極めて霊的な感度が高く、イエス様のお言葉の意味を霊的によく理解していたということではなさそうです。
 では何を信じたのでしょう。聖書は沈黙していますが、「これは普通ではない、イエス様に関連して何かが起こっている」ということを信じたと考えられます。
 イエス様の死体が納められたお墓が空っぽになっていることから、何かが起きていることを信じ、また復活のイエス様がおられることを弟子たちの中で早く気づいたヨハネ。

 それは、いつもイエス様の愛に信頼し、その愛を受け入れてきたから、私たちをあれほどに愛してくださったイエス様とその愛をいつも意識していたから、その愛を信じていたから、イエス様の愛の御業、またその行動をだれよりも感じることができたのです。
 ヨハネによる福音書21章7節を読みます。

21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。

 《イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。》のです。愛を通して主を知るヨハネがここにいました。

 復活されたイエス様が、弟子たちに再び現れたときの出来事です。最初に《「あれは主だ」》と気づいたのは、《イエスの愛しておられた弟子》、つまりヨハネでした。誰よりも先に、それがイエス様だと分かったのです。

 ここに、ヨハネの特徴がよく現れています。彼は、「論理や証拠」よりも、「愛の感性」を通して主を認識しました。いつもイエス様の愛に信頼し、その愛に生きていたヨハネだからこそ、たとえ遠くにおられる姿でも「それが主である」とすぐに気づくことができたのです。

 聖書は、私たちにこのヨハネの姿を通して、「イエス様の愛を感じ取り、信じる」ことへと導いています。
 言い換えるなら、神さまはヨハネを、「愛を通して主を証しする人」として立たせておられるのです。
 そういう意味で、ヨハネはまさに「愛の伝道者(メッセンジャー)」と呼ぶにふさわしい存在だと言えるでしょう。
 ヨハネの紹介をこれで終えても良いかとも思いますが、せっかくの機会ですので、使徒ヨハネを通して、イエス様の示された愛を次週から見てみます。

2025年6月29日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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