ショートメッセージ【東方の博士たち】
マタイによる福音書2章1-8節
(喜ぶ者とは)
1、東の博士たちの来訪
2、喜ぶ博士たち
3、喜べない人との違いに目を向けて
1、東の博士たちの来訪
マタイによる福音書2章1-8節を読みます。
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
マタイの福音書2章2節では、東の博士たちが《「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。》と言っています。この《星》について聖書に詳しい説明はありませんが、博士たちの間では昔から伝えられていた学問や言い伝えがあったのだと思われます。
たとえば現代でも、考古学や歴史学が聖書を理解する助けになるように、イスラエルの東にある地域でも、旧約聖書に書かれていない形で神さまを知る道が与えられていたのかもしれません。
聖書は基本的にイスラエルを中心に記されていますが、ルツ記やヨナ書、ヨブ記などを見ると、異邦人(イスラエルの民ではない人々)にも神さまを信じる信仰が示されていることがわかります。こうしたことからも、神さまは広い世界にご自身を現されていたと考えることができるのです。
一方、ユダヤ人の王が生まれる場所についてはミカ書5章2節に書かれています。
5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
言葉の表現は少し違っていても、言っている内容は同じです。
マタイの福音書2章7節を見ると、ヘロデ大王は博士たちと密かに会っています。このことから、博士たちはある程度の地位や影響力を持っていた人物だったと考えられます。そのときヘロデは、《「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。》と言いますが、実際はそうする気はなく、嘘をついていたのです。
つまり、「ユダヤ人の王が生まれた」という情報自体はヘロデも博士たちも同じように知っていましたが、何のためにその情報を使うのかという目的が違ったため、行動も大きく異なったということです。
このように、どの時代や文化でも、同じ事実を知っていても、それをどう受け止め、どう行動するかは、その人の心や目的によって変わるものです。
2、喜ぶ博士たち
マタイによる福音書2章9-12節を読みます。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
博士たちは星に導かれて、まだ幼いイエス様のところまでたどり着きました。そしてイエス様に会うと、すぐにひれ伏して礼拝しました。それは、すでにイエス様を「救い主」と信じていたからです。もちろん、長い旅の途中で、その信仰がさらに確かなものになったのでしょう。
危険な砂漠を超えてきてでも「どうしても救い主に会いたい」という強い思いが、命がけの旅へと彼らを突き動かしたのです。
この思いは、今を生きる私たちにも通じるものです。
前回の話では、マリヤが御使いの言葉を信じて、自分が神さまから選ばれた者だと信じ抜きました。たとえ、それが当時の社会で石打ちにされるかもしれないほど危険なことだったとしても、彼女は信じたのです。
博士たちも同じように、一度でいいから救い主に会いたいという願いに人生をかけました。
このように、神さまを信頼する心は、ときに自分の考えや感情、意志を超えて私たちを導きます。そして、その導きの中にこそ、本当の恵みや生きる意味があるのです。
博士たちは最後、ヘロデのもとに戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていきました。神さまに信頼し、神さまのことばに従う人は、いつも神の御心に導かれていくのです。
3、喜べない人との違いに目を向けて
マタイによる福音書2章13-18節を読みます。
2:13 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
2:17 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
2:18 「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。
先ほどもお話ししたように、ヘロデ大王は《ユダヤ人の王》を殺そうとしていました。そのため、博士たちに「見つけたら教えてほしい」と頼んでいたのです。しかしその願いは叶わず、ヘロデは結局、一度も会うことのなかったその王(イエス様)を恐れ続けながら、人生を終えることになりました。
ヘロデ大王は、自分の地位を守るために多くの努力を重ねました。
人間的に見れば、大きな事業も成し遂げた人物です。でも、彼の人生は自己中心と恐れに支配された、苦しいものでした。
それに対して博士たちは、真逆の道を歩みました。彼らは神さまを信じ、その御言葉に従う喜びを持っていたのです。
この違いは、私たちに大切なことを教えてくれます。博士たちの姿を通して、神さまとその言葉を信じる者にこそ、真の喜びが与えられるということを、心に留めていただけたら幸いです。
2025年8月3日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。