素直に読む【ヨハネの黙示録_27】
ヨハネの黙示録20章1-15節
「測り得ない神さまのみ恵み」
〈はじめに〉
いよいよ黙示録も20章に入ります。
ここまでの流れを振り返ると、キリストに敵対するあらゆる勢力、サタンの手下である「獣」や「にせ預言者」、獣の印を押された者たち、さらにサタンが活動の場としていたこの世(大淫婦)もすべて滅ぼされました。あとは、サタン自身を残すのみとなっています。
神さまのご計画が一気に進められ、終わりの日が近づいていることがはっきりと示されており、いよいよ天の御国が実現する時が来るという期待に満ちた場面です。
ところが、この20章には少し不思議に思える出来事が描かれています。
まず、ある特別な人たちが先に復活させられ、地上に「千年王国」が築かれます。そしてサタンは、すぐに滅ぼされるのではなく、《底知れぬ所》と呼ばれる場所に千年の間、閉じ込められます。その後、もう一度だけ解き放たれ、最後の戦いの準備をさせたうえで、ようやく完全に滅ぼされるのです。
どうして神さまはすぐに終わらせず、こうした手順を踏まれるのでしょうか。少し疑問に思えるような点もありますが、ここまでの黙示録の流れ、そして聖書全体のメッセージから、神さまが私たちに何を示そうとしておられるのかを、これから一緒に見てまいりましょう。
〈本文〉
ヨハネの黙示録20章1-3節を読みます。
20:1 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
20:2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
20:3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
20章の最初の場面を見ていきましょう。
まず、ひとりの御使いが天から降りてきます。その御使いの手には、《底知れぬ所のかぎ》と《大きな鎖》がありました(20章1節)。この御使いは、悪魔でありサタンである《龍》、つまり《年を経た蛇》を捕らえて、千年間つなぎ止めます(20章2節)。さらにこのサタンを《底知れぬ所》に投げ込み、入口を閉ざして封印してしまいます。そうして、千年が終わるまでの間、もう人々を惑わすことができないようにされるのです(20章3節)。ただし、千年の後には、もう一度だけ短い間解き放たれることになっています。
ここに書かれていることは、文字通りそのままの出来事でしょう。サタンはすぐに滅ぼされるのではなく、まずは閉じ込められ、時が来てから再び解放されます。このように、なぜ神さまがすぐに終わらせず、サタンを《しばらくの間》、解放されるのかについては、あとであらためて考えてみたいと思います。
ここでは一点だけ注目しておきたいことがあります。
20章2節にある《かの年を経たへび》という表現は、創世記に登場する、あのエバを惑わした蛇を思い起こさせます。つまり、あの蛇はやはりサタンそのものだったのだということが、ここで明らかになっているのです。
ヨハネの黙示録20章4-6節を読みます。
20:4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
20:5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
20:6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
ヨハネは、《多くの座》があるのを見ました。その座には人々が座っていて、彼らには《さばきの権》(権限)が与えられていました(20章4節)。
その人々とは誰なのか。続けてこう記されています。
《イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。》
彼らは死からよみがえり、キリストとともに千年間、支配しました。
20章4節の《かず多くの座があり、その上に人々》とは、こうした信仰に生き、命をかけて従った人々のことでしょう。
黙示録の流れから考えると、患難期(終末の大きな苦しみの時)に殉教した人々が中心だと理解できます。ただし、4節を注意深く見ますと、イエス様の証し神さまの言葉を伝えた人、そして獣やその像を拝まず刻印を拒んだ人と、それぞれ別の表現で記されていることから、必ずしも同じ時代の人々とは限らないようにも思えます。
そう考えると、イエス様の十字架と復活の後に殉教した人々だけでなく、神さまの言葉を伝えたという意味では、旧約時代の信仰者たちも含まれている可能性があると言えるでしょう。
これらの人々は、神さまとキリストに仕える《祭司》とされ、キリストとともに千年王国を導く者となります。ここにある《支配する》という言葉は、原典で「ἐβασίλευσαν」(エバシレウサン)とあり、辞典では「王として治める、~を統治する、~支配する、~の王である」という意味から、当時の王のイメージとして統治するイメージでしょうか。
そして、これが《第一の復活》と呼ばれています。これは、祝福された、特別な復活です。この復活にあずかる者たちは、《さいわいな者》であり《聖なる者》とされます(20章6節)。
彼らには《第二の死》、すなわち永遠の滅びの裁き(火の池)は何の力も持ちません。彼らは神さまの前で義とされ、最後の《大きな白い御座》(20章11節)のさばきの時にも、「罪なし」とされるのです。
ここで、地上に現れる“千年王国”について少し考えてみたいと思います。
その理解の手がかりになるのが、使徒行伝1章6節の弟子たちの問いかけです。
1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
次の使徒行伝1章7節でイエス様が答えられます。
1:7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
イエス様はイスラエルの国の復興は否定されておられません。《父がご自分の権威によって定めておられるのであって、》とイエス様は父なる神さまのご権威によって定めておられることを話されました。
この願いは、弟子たちだけでなく、当時のユダヤの民すべてが抱いていた切なる願いでした。
彼らは、ローマの支配から解放され、ダビデ王のような強く正しい王が再び国を治めることを待ち望んでいたのです。
ヨハネの黙示録11章の中では、イエス様の証人として遣わされた二人の証人が、人々の目の前でよみがえらされるという出来事が描かれていました。
神さまは「見ないで信じる者は幸いです」と語られたお方ですが、それでもなお、ひとりでも多く救いたいと願われ、「見て信じる者」に対してもあわれみを示されるのです。
このようにあわれみ深く、恵みに満ちた神さまが、イスラエルの民が長い間待ち望んできた「地上の神の国」を、ここで実現してくださるとしても、何ら不思議ではありません。
私たち異邦人には、イエス様の十字架と復活によって開かれた「教会の時代」、すなわち、およそ2千年にわたる恵みの時が与えられてきました。しかし、イスラエルの多くの人々はこの間、イエス様を救い主として受け入れず、恵みからこぼれ落ちている現実があります。だからこそ、この千年王国は、神さまがイスラエルの民にあらためて注がれる大いなる恵みの時である、と考えることができるのではないでしょうか。
次にサタンが千年間縛られたのち少しの間解放されることについても考えてみましょう。ヨハネの黙示録20章7-10節を読みます。
20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
サタンは、千年の間縛られていた獄から、時が来て解き放たれます(7節)。
神さまがサタンをあえて再び解放されたのは、地上のあらゆる国々の民「ゴグとマゴグと呼ばれる勢力」を惑わして戦いに向かわせるためであったことが記されています(8節)。
このような大軍が神の民を取り囲むという場面に、当時のユダヤ人たちは、かつて自分たちが経験した紀元70年のエルサレム陥落を思い起こしたかもしれません。
このユダヤ戦争では、ローマ軍がエルサレムを包囲し、徹底的に破壊しました。
市街とともに、神殿も焼かれ、ユダヤの民は激しい屈辱と苦しみを味わいました。その後、わずかに残った者たちはマサダ砦に逃れ、最後まで抵抗を続けますが、紀元73年には全滅し、ユダヤはローマの属国となっていったのです。
このような過去の歴史と重なるように、千年王国の終わりにも神の民が包囲される出来事が起こります(9節)。
しかし、今度は違います。敵が包囲したそのとき、神さまご自身が天から火をもって介入され、敵を一瞬で焼き尽くされるのです。
この神さまの完全な勝利によって、イスラエルのかつての無念はついに晴らされ、神の義が明らかにされます。この幻を通して、彼らは神さまの御業を心から味わうことができたのではないでしょうか。
また、サタンが千年の間縛られていたことによって、千年王国は“この世の惑わし”や“悪魔の誘惑”が一切存在しない特別な時代となっていました。
そのような環境であっても、人は本当に心から神さまの義と真理を選ぶことができるのか。千年王国は、その信仰の真実さが試される舞台でもあったのかもしれません。
ここで登場する「ゴグとマゴグ」についても少し見ておきましょう。
旧約聖書のエゼキエル書38章によると、「ゴグ」は終わりの日にイスラエルを攻める神さまに敵対する勢力です。そして、その拠点とされるのが「マゴグ」という地です(エゼキエル書38章2節)。
一方、黙示録では、ゴグとマゴグはともに神さまに逆らう民として描かれており、終末の大反乱を象徴する存在となっています。
彼らがどこから出てきたのか、はっきりとは書かれていませんが、黙示録19章で裁かれずに残った者たちの子孫か、あるいは千年王国の中で、真心から神さまを選ばなかった者たちの末裔とも考えられます。
彼らの数は《海の砂のように多い。》とあり、外面的には平和と正義に満ちていた千年王国の中にも、内面には依然として神さまに逆らう思いが残っていたことを示しているようです。
ヨハネの黙示録20章11-15節を読みます。
20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
ここに描かれているのは、神さまによる最後のさばき。《大きな白い御座》のさばきの場面です。
このさばきの前には、すべての人が立つとあります。社会的な地位のあるなし、名声のあるなしに関係なく、《大いなる者も小さき者も》等しく神さまの御前に立たされます。
ここで開かれる《かずかずの書物》とは何でしょうか。
ローマ人への手紙2章6節にこうあります。
2:6 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
つまり、これらの書物には、私たちの行いや生き方が記されているのでしょう。
神さまのためにささげた祈りや奉仕、隠れた善意の行いも、神さまはすべてご存じであり、漏れなく報いてくださるに違いありません。
一方、罪に関する記録については、もしイエス様の救いを信じ、その義の衣に包まれているなら、神さまはその罪を見られずに赦してくださるのです。
もう一つ開かれた書物が、《いのちの書》です。
この書については、黙示録3章5節、サルデスの教会への手紙にも出てきました。
そこでは、《いのちの書》から名前が消されない者は、白い衣を着せられ、御使いたちの前でその名を言い表されるとありました。
《いのちの書》にはすべての人の名前が最初は記されていると考えられますが、神さまに背を向け続ける者の名前は、そこから消されてしまうという理解もあります。
そして14節に、《死も黄泉も火の池に投げ込まれた。》とあります。
《死も黄泉》も、もはや役割を終え、永遠の滅びへと葬り去られるのです。天の御国には、もはや死も、陰府も存在しません。これこそが、すべての涙がぬぐい去られ、悲しみも苦しみもない新しい世界への入り口となるのです。
この箇所は、厳粛なさばきを語ると同時に、救いの確かさと神さまの完全な正義を私たちに示してくれています。
《いのちの書》に名が記される者。それは、イエス様を信じる信仰によって救われた者です。
このお方を信じることが、永遠のいのちに至る唯一の道であることを、ここでも改めて教えられます。
〈まとめ〉
この終わりの時に示された幻について、私たちは「最後に来る御国(みくに)だけを見ていればよい」ということではありません。そこに至るすべての過程の中に、神さまの深いお心があることを、見落とさずに受け取るようにと、黙示録は語りかけています。
神さまは、本当に分け隔てなくすべての人に心を向けてくださり、一人ひとりに寄り添ってくださいます。
神の民として選ばれたイスラエルの民は、かつて自ら神さまと契約を結び、従うと決意しました。
しかし旧約聖書を見ればわかる通り、彼らはその契約を破り続けてしまいました。それでもなお、神さまは彼らを見捨てることなく、どこまでも愛されました。
そしてついに、地上にイエス様の王国を実現され、王国を取り囲む敵を天からの火で焼き尽くす完全な勝利を見せてくださったのです。
私たちもまた、神さまに背を向け、自分の力を頼りにこの世を歩んできた愚かな者です。本来、神さまの愛に値しない者たちです。
それでも神さまは、そんな私たちのためにイエス・キリストのいのちという代価を支払ってくださいました。そして今、イエス様を信じるだけで、誰にでも救いが与えられるのです。
この救いは、黙示録に描かれた終末のさばきや災いのただ中にあっても、揺らぐことのない確かなものです。
イエス様の愛とご配慮によって、私たちは守られ支えられながら、信じるだけで神の勝利にあずかり、賛美をささげることができるのです。
この栄光に満ちた希望を見ながら今日を生きること。なんと大きな恵みでしょうか。
「救われたからそれでよし」ではなく、この神さまの深いお心に、少しでも応えたいという思いが湧いてきます。
イエス様が、惜しみながら《いのちの書》から誰かの名前を消さなくてすむように、その願いをもって、私たちも働きたいと願います。
そしてそのすべての行いや働きは、神さまの《かずかずの書物》に記されており、やがて豊かな報いが約束されているのです。
このように、恵みに恵みを重ねながら歩む信仰生活をいただいていること、本当に、何という幸いでしょうか。
聖歌699番『ああ驚くべきイエスの愛よ』の歌詞が、いっそう心に深く響いてくるのではないでしょうか。
2025年8月15日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_27】
タイトル:「測り得ない神さまのみ恵み」
牧師:香川尚徳