ショートメッセージ【キリストの敵たち】
マタイによる福音書27章32-56節
ルカによる福音書23章39-43節、など
(それぞれの十字架)
1、明らかにキリストを敵視する人たち
2、傍観する人たち
3、神の子であることに気づく人たち
4、イエス様についてきた人たち
5、それぞれの十字架
イエス様が十字架にかけられたとき、その場には多くの人々が立ち会っていました。今回は、その人たちに注目してみたいと思います。ただし、一人ひとりを詳しく取り上げていくと時間がかかってしまうため、今回はいくつかのグループに分けて、それぞれの立場や思いに目を向けてみましょう。
1、明らかにキリストを敵視する人たち
マタイによる福音書27章39-44節を読みます。
27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
祭司長や律法学者たちは、以前からイエス様を敵視していました。それは、イエス様が聖書の預言どおりにキリストとしての働きをされていたためであり、その姿に嫉妬し、自分たちの立場が脅かされると感じたからです。
彼らは、本来なら矛盾しているような言動も、イエス様を排除するという目的のために平気で言い行い、それを喜んでいるのです。また、イエス様を公の場で悪く言うことで、自分たちの面目を保とうとしていたのでしょう。そして、群衆の中にもそれに同調する者たちがいました。
このような人々の姿からは、何も真理を悟ろうとする姿勢が見えてきません。実際、イエス様は捕らえられて以降、ほとんど語られていません。それは当然のこととも言えます。なぜなら、イエス様を敵とみなす人には、どれほどの真理が語られても、それを悟ることができないからです。
2、傍観する人たち
マタイによる福音書27章46-50節を読みます。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
27:48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
27:50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。
その場にいて、ただ見ているだけの人たちは、イエス様の言葉の意味を正しく理解せず、奇跡が起こるのではないかと勘違いしていました。パウロがコリント人への第一の手紙1章22節で、
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
とあるように、それぞれの人は、自分の文化や価値観、生活環境を基準にして物事を判断してしまう傾向があります。つまり、ただ傍観している人たちも、自分たちの見方や考えにとらわれていて、神さまを信じていない状態なのです。ですから、当然ながら、神さまの深い意味やご計画を悟ることはできないのです。
3、神の子であることに気づく人たち
マタイによる福音書27章51-54節を読みます。
27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、
27:52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
27:53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
27:54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。
ローマの兵士たちは、事実と結果を重んじて行動します。命をかけて戦う立場にある彼らは、根拠のない話や絵空事のようなことを簡単に信じることはありません。しかし、彼らは実際に目の前で起きた出来事を見て、イエス様が本当に《神の子》であったことに気づき、恐れを感じたのです。ヨハネによる福音書19章23-24節には、
19:23 さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。
19:24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。
とあります。この場面は、イエス様が亡くなる前の出来事ですが、ローマ兵たちがどれほど“実際に手に入るもの”や“成果”に関心をもって行動していたかを示しています。つまり、彼らは現実的な利得を求める人たちで、空想や感情だけでは動かない人たちです。
しかし、そんな彼らでさえ、イエス様の死のときに起きた出来事を目の当たりにして、《「まことに、この人は神の子であった」》と恐れを抱き、認めたのです。この「神さまへの恐れ」は、神さまとともに生きるための最初の一歩となる大切な心の働きなのです。
また、ルカによる福音書23章39-43節には、
23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
と書かれています。イエス様と同じように十字架につけられていた犯罪人のうちの一人は、イエス様の姿を見て、神さまに対する恐れを抱くようになりました。そして、自分が犯した罪を深く反省し、こう言いました。《「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。》と。つまり、イエス様が神の子であることを信じて、せめて覚えていてほしいと心から願ったのです。
それに対してイエス様は、《「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。》と約束してくださいました。この人が救われたのは、もう一人の犯罪人と違って、神さまを恐れ、自分の罪を悔い改めたからです。
詩編51編17節には、こう書かれています。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
この17節の最後の《かろしめられません。》という言葉は、現代の言い方にすると、「軽く扱わない」と言うことです。詩編51編17節の意味の《かろしめられません。》の意味は「大切に受け止めてくださる」という意味です。
十字架につけられた犯罪人は、自分の罪を悔い改め、心から神さまを恐れました。そしてその砕かれた心をもって、イエス様を信じたのです。まさにその苦しみの中で、彼は真の救い主である主イエス様を見いだすことができたのです。ですから、イエス様から《かろしめられません。》でした。
4、イエス様についてきた人たち
マタイによる福音書27章55-60節を読みます。
27:55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。
27:56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
27:57 夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。
27:58 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。
27:59 ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。
このように、イエス様が十字架にかけられたとき、多くの女性たちもその様子を見守っていました。さらに、ヨハネによる福音書19章25-39節などには、イエス様の母マリヤや、弟子のヨハネもその場にいたことが記されています。
多くの弟子たちが恐れて逃げてしまった中で、イエス様の死の時まで付き従い続けた人たちもいました。そうした人々は、イエス様が復活された後、比較的早い段階でその姿に出会う機会が与えられています。また、アリマタヤのヨセフやニコデモのように、パリサイ人や議会の議員など、社会的に高い立場にある人々もイエス様を信じて従っていたことから、イエス様に従った人たちは、性別や地位に関係なくさまざまであったことがわかります。
そのように、イエス様を信じてついていった人たちに共通していたのは、「この方こそ神の子である」という信頼の心でした。
5、それぞれの十字架
時間の関係で、登場する人々をグループに分けて見てきましたが、大切なことは、「あなたは今、どの立場からイエス様の十字架を見ているのか」という問いです。
使徒パウロは、コリント人への第一の手紙1章18節でこのように語っています。
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
また、「瞬きの詩人」と呼ばれたクリスチャンの水野源三さんは、こんな言葉を残しています。「『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫ぶ人の中に、自分もいる。」
イエス様は、そんな私たちにも優しく寄り添ってくださるお方です。ですから、まずは自分の心のままで、飾らず素直に、十字架の前に立ってみましょう。
そして願わくは、イエス様を信じたローマの兵士や、悔い改めた犯罪人のように、主を受け入れる者となりたいものです。また、最後までイエス様についていく者でありたいと願います。
最後に、イエス様が十字架の上で、まさにご自分を十字架につけている人々のために父なる神さまへ“とりなし”の祈りをされた言葉をご紹介して、締めくくりたいと思います。
ルカによる福音書23章34節aです。
23:34a そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
2025年11月30日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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