ショートメッセージ【マグダラのマリヤ】

ヨハネによる福音書20章1-18節
ルカによる福音書8章1-3節、他

(失望が希望に変えられた女性)

1、イエス様につき従ったマグダラのマリヤ
2、復活のイエス様にしがみつくマグダラのマリヤ

1、イエス様につき従ったマグダラのマリヤ
 ルカによる福音書8章1-3節を読みます。

8:1 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。
8:2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、
8:3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。

 《マグダラ》というのは地名で、マグダラ出身のマリヤという意味です。
 このマグダラのマリヤは、イエス様によって七つの悪霊を追い出してもらった女性です。その後はイエス様の弟子たちと一緒に行動し、イエス様や弟子たちの生活を支えるお世話をしていた女性の一人でした。
 ヨハネによる福音書20章1-2節を読みます。

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。

 《一週の初めの日》とは、私たちの言う日曜日のことです。これは、ユダヤ教の安息日である土曜日が終わった次の日の朝を意味します。まだ夜が明けきらない暗いうちに、マグダラのマリヤはイエス様が葬られたお墓へと急いで向かいました。

 イエス様は、前の週の金曜日に十字架で亡くなり、その日のうちにお墓に葬られていました。他の福音書では、マリヤはほかの女性たちと一緒にお墓に来たと書かれていますが、ヨハネの福音書では、マグダラのマリヤが1人で来たように描かれています。

 どうしてこのときマリヤが1人だったのか、はっきりとは分かりませんが、4つの福音書の記述を合わせて考えると、次のようなことが考えられます。

 マリヤは最初、ほかの女性たちと一緒にお墓に来ましたが、お墓の入り口の石が取りのけられていたのを見て驚き、他の女性を残したまま急いで弟子たちに「誰かがイエス様の遺体を持ち去った」と知らせに行ったとも考えられます。
 あるいは、天使を見て恐れたため、女性たち全員でいったん引き返したけれども、マリヤだけはイエス様の遺体のことが心配で、弟子たちに知らせるために再び動いたという見方もできます。

 マルコの福音書では、女性たちは恐ろしくて何も言えなかったと書かれていますが、マタイやルカの福音書では、すぐに弟子たちに事実を伝えたと記されています。
 このことから、おそらく最初は恐怖で沈黙していたけれども、イエス様の遺体が見当たらないことがどうしても気になって、最終的には弟子たちに話したのだと思われます。

 いずれにしても、マリヤはイエス様の遺体が消えた、という知らせを聞いたペテロとヨハネのあとを追いかけ、お墓に向かったのでした。
 ヨハネによる福音書20章5節を読みます。

20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。

 イエス様のお体が納められていたお墓は空っぽで、遺体に巻かれていた亜麻布(あまぬの)だけが残されていました。このことは、イエス様の遺体が誰かに盗まれたのではなく、ほかの出来事 ―― つまり、イエス様が復活されたということを示していたのです。
 しかし、ペテロもヨハネも、そのときはまだイエス様が復活されたことに気づくことができませんでした。
 ヨハネによる福音書20章9-12節を読みます。

20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。

 マグダラのマリヤは、ペテロとヨハネのあとを追って、もう一度お墓に戻ってきました。でも、そのときにはすでに二人は帰ってしまっていて、そこには誰もいませんでした。マリヤを迎えたのは、ただ空っぽのお墓だけでした。

 ところが、お墓の中をのぞくと、なんと二人の御使い(天使)がそこにいたのです。
 その場面を見てみましょう。ヨハネによる福音書20章13-16節を読みます。

20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

 マグダラのマリヤは、イエス様が亡くなられたことをどうしても受け入れることができませんでした。せめてお体の側にだけでも、と願っていたのに、その遺体さえ見つからず、何もできないまま深い悲しみに沈み泣いていました。
 あまりにも悲しみが大きく、心も霊もその思い(悲しみの感情)にすっかり支配されてしまっていたため、御使い(天使)の言葉もまともに聞こえず、イエス様が復活すると前もって語られていたことさえ思い出せない状態でした。

 そんなマリヤに対して、イエス様は深いあわれみをもって、ご自身がよみがえられた姿を示されました。しかしマリヤは最初、それがイエス様だとは気づかず、お墓の管理人か何かだと思ってしまいました。
 けれども、イエス様がやさしく「マリヤよ」と声をかけられたとき、その聞き覚えのある声の呼びかけに、彼女はようやく目の前におられるのがイエス様だと気づいたのです。

2、復活のイエス様にしがみつくマリヤ
 ヨハネによる福音書20章17-18節を読みます。

20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
20:18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

 このときマグダラのマリヤは、感動と喜びのあまり、思わずイエス様にすがりつこうとしたのでしょう。そんなマリヤに対して、イエス様は《「わたしにさわってはいけない。》と言われました。

 これは、「まったく触れてはいけない」という厳しい禁止ではなく、「これ以上すがりつくのはやめなさい」という意味だったと考えられます。マグダラのマリヤは、もう会えないと思っていたイエス様に再び会えたことが嬉しくて、「もう二度と離れたくない」という思いから、自然としがみついたのでしょう。

 けれどもイエス様は、《「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。》「と言われました。これはどういう意味なのでしょうか。

 イエス様の復活は、ただ元の体に戻ったということではなく、朽ちることのない、栄光に満ちた体に変えられるための復活でした。そして、それは天の父なる神さまのもとに上ることによって完成するものです。ですからイエス様は、まだ完全に栄光のお体となられていない今の段階で、地上の関わりにすがりつき続けるのではなく、新しい関係へと心を向けなさい、という思いをもってマリヤに語られたのでしょう。
 ここで、コリント人への第一の手紙15章42-44節を読みます。

15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

 このようにパウロは言っています。

 マリヤは心の中で、「もう二度と死なないでください。どうか私たちの前からいなくならないで、ずっとそばにいてください」と願い、イエス様をこの地上に引き留めたいと思っていました。
 その気持ちはとてもよくわかります。でも、イエス様が復活されたのは、マリヤの願いや期待を叶えるためではありませんでした。

 イエス様は、マグダラのマリヤにこう伝えようとされていたのです、「わたしのいのちは、十字架で終わったのではない。永遠のいのちへと続いている。だから、わたしはこれからもあなたを愛し、支え、導いていく。そのために父なる神のもとに上り、朽ちることのない存在となって、天からあなたを支え続ける。だからあなたは失望しなくてよいのです」と。

 マリヤは、このときすぐにはイエス様の思いをすべて理解することはできなかったかもしれません。でも、イエス様は、いずれマリヤがそれを受けとめるようになることを知っておられたのです。
 そしてマグダラのマリヤは、復活されたイエス様にお会いし、「イエス様は本当に生きておられる!」ということを最初に弟子たちに知らせる役目を担いました。弟子たちはすぐには信じられませんでしたが、マリヤの知らせが、彼らが復活の事実を受け入れていくための最初の大切な一歩となったのです。
 ローマ人への手紙9章33節を読みます。

9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。

 マグダラのマリヤは、復活されたイエス様にお会いすることで、深い悲しみや失望が、希望へと変えられました。
 その後、彼女は弟子たちとともに「イエス様はよみがえられた」と証しする役目を果たし、また、復活の証人として用いられる弟子たちを支える働きにも携わったことでしょう。

 イエス・キリストに信頼する者は、決して失望のままで終わることはありません。
 イエス様の復活は、ただ肉体が生き返ったというだけではなく、朽ちることのない「永遠のいのち」と「栄光の体」を持つ神としての本質に完全にあずかる出来事でした。

 それまでのイエス様は、人間の姿をとり、時間や空間の制限の中で私たちを支え、守り、導いてくださいました。 しかし復活によって、イエス様は、これからは終わることのない「永遠の支え・守り・導き」として、私たちのそばにいてくださるお方へと変えられたのです。

 このことは、十字架による救いの働きが完全に成し遂げられたことの証でもあります。
そしてそれは、私たちがすでに救われているという確かな保証であり、やがて永遠のいのちをもってイエス様と共に神の国に生きることができるという約束でもあるのです。

 私たちは、マグダラのマリヤのように、復活されたイエス様に直接お会いすることはできません。
 けれども、天におられるイエス様が、時間の制限なく、絶えず私たちを支え、守り、導いてくださっていると信じるとき、私たちの霊は復活の主に確かに出会っているのです。

 そして今もイエス様は、天の父なるさま神の右におられ、私たちのために祈り、働きかけ続けてくださっています。
 だから私たちは、どんなときにも失望したままにはされず、常にその御手の守りの中にあると信じることができるのです。

2025年12月7日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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