ショートメッセージ【幼子たち】

マタイによる福音書19章13-15節
マルコによる福音書10章13-16節
ルカによる福音書18章15-17節

(幼子の信仰)

1、並行記事
2、親の信仰
3、弟子たちの盲目的な態度
4、憤るイエス様
5、注意されるイエス様
6、幼子らを祝福されるイエス様

1、並行記事
 この記事は、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書に書かれています。そして、3つの福音書は、幼子の話しの直後に、財産がある青年の役人が登場します。彼は、イエス様に《「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。》(マタイ19章16節)で訊ねます。青年は、模範的な暮らしをしているようでしたが、イエス様が《「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。》(マタイ19章21節)と答えると、青年の役人は悲しみながら立ち去っていきました。

 多くの資産を持った青年は、この世の富に心があるためイエス様に従うことはできませんでしたが、幼子たちは、この世の価値観に縛られていませんから、素直にイエス様のお言葉に従い、永遠のいのちを得ることができると言えます。
 それでは、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書を短いので見てみましょう。
 マタイによる福音書19章13-15節

19:13 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
19:14 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。
19:15 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。

 マルコによる福音書10章13-16節

10:13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
10:14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
10:15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
10:16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。

 ルカによる福音書18章15-17節

18:15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。
18:16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
18:17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

2、親の信仰(マタイ19章13節、ルカ18章15節)
 幼子たちをイエス様のみもとに連れてきたのは、親たちの信仰によるものでした。彼らは、子どもたちがイエス様の祝福を受けることが何よりも重要だと信じていました。信仰深い親たちの願いは、子どもを主の前に導くことです。
 現代でも、子どもを教会に連れてくる親たちは、最も大切な霊的教育の場へと導いているのです。子どもにとって、最初に出会う信仰の模範は親です。

3、弟子たちの盲目的な態度(マタイ19章13節、マルコ10章13節)
 弟子たちは、子どもたちをたしなめました。おそらく、「イエス様は忙しいのだから、子どもなどに関わっている暇はない」と考えたのでしょう。子どもを軽視していたことが、弟子たちの態度から読み取れます。
 これは、弟子たちの価値観がこの世の常識に染まっていたことを示しています。しかし、イエス様は、幼子を退けることを決してなさいませんでした。むしろ、その態度に憤りを示されました。

4、憤るイエス様(マルコ10章14節)
 マルコ10章14節には、《それを見てイエスは憤り》とあります。これは、数少ない“イエス様の怒り”の場面の一つです。
 子どもたちが神さまのもとに近づくことを妨げる態度に対して、イエス様は明確に怒りを示されました。それは、神の国が《このような者たちの国》だからです。
 
5、注意されるイエス様(マルコ10章15節、ルカ18章17節)
 イエス様は《幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。》と言われました。
 これは、幼子たちの純真さ、素直さ、信じる心、委ねる心が、信仰にとってどれほど大切であるかを教えています。
 信仰は知識だけでなく、心からの信頼に根ざしたものです。

6、幼子らを祝福されるイエス様(マタイ19章15節、マルコ10章16節)
 イエス様は、幼子たちを抱き、手をその上に置き、祝福されました。
 子どもたちは、イエス様の愛の中で最も大切な存在の一人であることがわかります。神の国は、彼らのような者のために用意されているのです。

7、子どもたちは神さまのことを理解できる。
 マタイによる福音書21章14-16節

21:14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。
21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

 私たちもまた、幼子のように素直な信仰をもって、主に近づく者でありたいと思います。
 ここで、信仰を持つのに年齢は関係あるのでしょうか。そのヒントとなるコリント人への第一の手紙2章5-14節を読みます。

2:5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
2:6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
2:7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
2:8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」/のである。
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。

 神さまについての真理は、人間の知恵によって理解することはできません。また、感覚で理解できても具体的に言葉で示されなければ理解できません。
 神さまの真理は、神さまに心を開き、遜った心にのみ、ご聖霊によって示されるのです。 神さまは、子ども達にも、御言葉に対するすばらしい理解力を与えて下さいます。それは子どもの心が神さまに向かい遜り、従おうとする気持ちがあるからです。私たちは歳を重ねると、自分の罪を隠し、傲慢になって、自分は倫理観が高いと思い込み、忙しさを理由に、神さまと交わりを保とうとしなくなります。神さまはこのような態度を憎んでおられます。

 米国のBarna Group(バルナ・グループ:本社はカリフォルニア州ヴェンチュラ)という、キリスト教系調査会社によりますと、アメリカのキリスト教徒の約94%が18歳までに信仰を持つ決断をしており、成人してから信仰を持った人はわずか6%です。また、別のBarna Groupの調査では、アメリカの子ども(5~13歳)がキリストを受け入れる確率は32%、14〜18歳の若者では14%、19歳以上の成人では6%と報告されています。
 神さまを信じるのに、若さは問題となりません。

2025年11月2日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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