ショートメッセージ【視覚障がい者】
ヨハネによる福音書9章1-41節
(今は見える ― 世の光に出会った人)
1、視覚障がい者と出会ったイエス様
2、この視覚障がい者について
3、視覚障がいの理由
4、視覚障がいを癒したイエス様
5、パリサイ人たちの行ない
6、彼の証し
7、信じない者へのキリストの警告
1、視覚障がい者と出会ったイエス様
ヨハネによる福音書9章1節を読みます。
9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
イエス様は道を歩いておられるとき、ひとりの視覚障がい者に目を留められました。この人は生まれつき目が見えず、人々の中に埋もれていた存在です。しかし、イエス様はそのような一人の存在を見過ごすことなく、深い憐れみの心をもって目を向けられました。
人が“見ないふり”をして通り過ぎるような存在に、キリストは目を留められます。ここに、イエス様の愛と“まなざし”の本質があります。
2、この視覚障がい者について
ヨハネによる福音書9章2節、8節、21節を読みます。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:8 近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。
9:21 しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
この人は「生まれつきの視覚障がい者」であり(1節)、人々からは物乞いとして見られていました(8節)。また彼が《おとな》である(21節)とあるように、人格的に尊重されるべき存在でありながら、社会的には低く見られていたのです。
それでも、彼はイエス様と出会うことによって、目だけでなく、人生そのものが開かれていくことになります。
3、視覚障がいの理由
ヨハネによる福音書9章2-3節を読みます。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
弟子たちは、「この人が視覚障がいをもって生まれたのは、だれの罪のためですか」と尋ねました。当時の一般的な考えとして、「障がい=罪の結果」という因果応報の思想があったのです。
しかし、イエス様は明確にそれを否定されます。3節の《「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。》です。
このイエス様の御言葉は、苦しみにある者の存在が、神さまの栄光の顕れの器とされうることを私たちに示しています。
4、視覚障がいを癒されたイエス様
ヨハネによる福音書9章6-7節を読みます。
9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
9:7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
イエス様は泥を作り、視覚障がい者の目に塗り、《「シロアムの池に行って洗いなさい」》と命じられました。彼はその言葉に従い、見えるようになったのです。
この癒しの出来事は、“命じられたことに従ったときに奇跡が起こる”ことを表しています。
5、パリサイ人たちの行ない
ヨハネによる福音書9章16-40節を読みます。
9:16 そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
9:17 そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
9:18 ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、
9:19 尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
9:20 両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
9:21 しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
9:22 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。
9:23 彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。
9:24 そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
9:25 すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。
9:26 そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。
9:27 彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。
9:28 そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
9:29 モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
9:30 そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
9:31 わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
9:32 生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
9:33 もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
9:34 これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
9:35 イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。
9:36 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
9:37 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
9:38 すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
9:40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
9章は、多くの登場人物がいます。視覚障がい者、イエス様の弟子たち、パリサイ人、民衆、両親、そして、イエス様。視覚障がい者の視力が与えられた奇跡について、それぞれの立場や考え、信仰心が輪郭をもって描かれています。
奇跡を目の当たりにしても、パリサイ人たちはイエス様を“安息日を守らぬ罪人”と断じ、癒された人を嘲り、ついには会堂から追放しました(34節)。この出来事は、形式や律法に縛られて真理を見失った宗教的権威者の姿を描いています。
イエス様の行ないが“神からさまのものであるかどうか”を吟味する代わりに、自らの立場を守るために目を閉じてしまったのです。
6、彼の証し
この癒された視覚障がいの人は、パリサイ人のような学識はありませんでしたが、ヨハネによる福音書9章25節で、次のように明確に語ります。
9:25 すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。
この証しは簡潔ですが、力強く、真実です。神さまの恵みを受けた者の証しとは、まさにこのような「自分の経験を語ること」です。知識ではなく、神さまとの出会いの実体験が語られています。
その後、彼はイエス様と再び出会い、9章38節で《「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。》のです。彼は、目が見えるようになっただけでなく、心の目も開かれたのです。
7、信じない者へのキリストの警告
イエス様は最後に、次のように語られます。39節《…見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。》これは、霊的な盲目を持つ人々への警告です。
自分は「見えている」(真理を分かっている)と思い込み、悔い改めを拒む者に対して、イエス様は厳しい言葉をもって真理を示されました。ヨハネによる福音書9章40-41節を読みます。
9:40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
これは、私たち自身への問いかけでもあります。私たちは自分の目の曇りに気づいているでしょうか。それとも「見えている」と思い込んでいないでしょうか。
この箇所は、単なる身体の癒しの奇跡ではなく、「霊的な目が開かれる」ことを著者ヨハネは教えています。視覚障がい者はイエス様と出会い、従い、証しをし、信じて拝みました。
その姿は、私たちがたどるべき信仰の歩みを教えています。
イエス様は今も、霊的に暗闇を歩む私たち一人ひとりに光をもたらすお方です。
2025年10月26日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。

