ショートメッセージ【イスカリオテのユダ①】
ヨハネによる福音書12章3-8節、他
(主観と思い込みの効率重視者)
1、財布を預かっていた盗人
2、弟子たちの背景から
3、イスカリオテのユダから学ぼう
1、財布を預かっていた盗人
ヨハネによる福音書12章3-8節を読みます。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
マリヤがイエス様に香油をささげたとき、ユダはそれに口を出しました。
けれども、その香油はマリヤの持ち物であり、彼女がどう使うかは彼女の自由です。
当時、女性は男性より低い立場に置かれることが一般的でした。ユダは、自分が上の立場だと思い込み、「それは違う、こうすべきだ」と指導するように語ったのかもしれません。
ここで問題なのは、ユダの発言がマリヤのためでもなく、イエス様のためでもなかったということです。
表面上は正しいことを言っているように見えますが、実際には、自分の考えにそぐわない行動をしたマリヤを批判し、その批判が本来の自分の立場を超えたものであることに、ユダ自身が気づいていないように思われます。
一見「正しい指摘」のようであっても、動機や心の中にある思いが問われているのです。
この出来事を通して、ユダが“イスカリオテのユダ”として悪い意味で知られるようになったことは、とても皮肉なことです。
「イスカリオテ」という言葉は、「ケリオテ出身の人」という意味で、アモス書2章2節を見ると、
2:2 それゆえ、わたしはモアブに火を送り、ケリオテのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす。モアブは騒ぎと、ときの声と、ラッパの音の中に死ぬ。
とありますから、そこが高い身分の人々が住むような、格の高い地域であったことがうかがえます。
イエス様や他の弟子たちの多くが、ガリラヤ地方の出身であることを考えると、ユダは社会的にその上の階層の出身だったと言えるでしょう。
もちろん、出身地によって人を決めつけることはできませんが、人は誰でも、自分が育った地域や環境の考え方に少なからず影響を受けるものです。
現代でも、出身地による偏見や差別が残っていることからも、それは理解しやすいことだと思います。
ユダの心は、この時すでにイエス様を裏切ろうとするところにまで傾いていました。
その背景には、彼自身の価値観や育った環境、そして心の中にある高慢さが関係していたのかもしれません。
話を元に戻しますと、ユダは自分よりも身分が低いと思っていた地方出身の女性・マリヤに対して、「教えてやっている」といった上からの態度で口を出しています。
しかもユダは、弟子たちの会計係を任されていながら、実はお金をごまかして盗んでいたと聖書には書かれています。
そうした背景もあって、なおさらマリヤに対して強く出たのかもしれません。さらに、彼は自分のしていることが悪いとも思っていない様子です。
そんなユダに対する聖書の評価は非常に厳しく、イエス様(神の御子)のすぐ側にいながら、実は神さまから最も遠い心の状態にあった人物として描かれています。
そして、そのユダが見下していたマリヤは、地方出身で、社会的にも低く見られていた女性が、神さまに最も近い心を持っていたという点に、聖書の深い皮肉が込められているのです。
2、弟子たちの背景から
では、”イスカリオテのユダ”だけがこのようにひどかったのかと言うと、決してそうとは言えません。12弟子たち全員に当てはまることもあります。いくつか例を挙げます。
まずマタイによる福音書18章1-4節です。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
人が大勢集まると、その中で自分がどの位置にいるのか、誰が上で誰が下かといった「順位」を気にするのが人間の性質のようです。
イエス様は、弟子たちの中にもそうした思いがあることを見抜かれ、それに対して「神さまだけを素直に求める幼子のような心こそ大切である」と教えられました。
人間の社会では、地位や身分によって上下関係がつくられがちですが、教会やクリスチャンの交わりは、そうした階級ではなく、「愛」によって結びつくことがふさわしいのです。
このような“上下の意識”がさらに進んでいった例として、これからマタイによる福音書20章20-28節を読んでみましょう。
20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
弟子たちは、自分たちだけでなく家族までも巻き込んで、イエス様のもとで高い地位につきたいと願っていました。
それに対してイエス様は、「わたしの愛の姿、そして人々に仕えているこの姿から学びなさい」と教えられたのです。
これは、今の時代で言えば、教会に対する大切な警告でもあります。
残念なことに、同じようなことが今日の教会の中でも、少なからず起こっているのではないでしょうか。
私たちは、”イスカリオテのユダ”だけを責めることはできません。
目の前でイエス様が謙遜に人に仕える姿を示しておられるのに、それを見ながらも心が変わらない・・・。
そんな人間のかたくなな心の姿が、ここに表されています。
人間というのは、そもそも利己主義で主観的です。自分の思い込みに左右されやすい存在なのだということを改めて教えられます。
3、イスカリオテのユダから学ぼう
弟子たちは、イエス様を王として中心に据え、新しい王国を築くことを目指していました。しかし、その多くは「自分がどんな立場につけるか」「どんな地位が得られるか」といったことばかりを気にしていました。
そして、“イスカリオテのユダ”に至っては、なんとイエス様ご自身を排除してでも、自分の思い描いた目的を実現しようとするような、本末転倒な考えにとらわれていたのです。
これは、現代の私たちにも通じる問題です。
目標を早く達成するために、「タイパ(タイムパフォーマンス)」や「コスパ(コストパフォーマンス)」を重視しすぎて、本来の目的や大切なことを見失ってしまう・・・そんな姿が、今の時代にも見られるのではないでしょうか。
ときには、すぐに結果を求めずに立ち止まり、じっくり考えることも必要です。
そして、たとえ自分の目には非効率に思えるようなことでも、主の命令に素直に従うことが、何よりも大切だということを聖書は教えてくれています。
“イスカリオテのユダ”のことを「愚かな人物だ」と笑っている私たち自身が、実は今の時代の“ユダ”になってしまってはいないか・・・そのことに気づかされるのです。
2025年11月16日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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