ショートメッセージ【イスカリオテのユダ②】
マルコよる福音書14章42-52節
マタイによる福音書27章1-5節、他
(あなたの主はだれか)
1、キリストとの別れ
2、裏切る弟子たち
3、ユダの末路
4、イスカリオテのユダから学ぼう
前回、イスカリオテのユダが、すでに心の中ではイエス様を裏切る決意をしていた場面を見ました。
当時、イスラエルの人々は、イスラエル王国の再建を強く望んでいました。ユダもその一人で、その目的を果たすためなら手段を選ばず、イエス様を裏切ってでも実現しようとしていたのです。
前回のメッセージのタイトルは「主観と思い込みの効率重視者」でしたが、まさにユダの姿にぴったり当てはまるものでした。そして今回の聖書箇所では、いよいよユダが心の中だけでなく、実際の行動としてイエス様を裏切る場面へと進んでいきます。
1、キリストとの別れ
マルコによる福音書14章42-46節を読みます。
14:42 立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
14:44 イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。
14:45 彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々はイエスに手をかけてつかまえた。
当時、接吻は親しい人への挨拶としてよく行われていました。それは、現代の親しい人に握手やハグをすることと似ていて、イメージしやすいと思います。しかしユダは、そのような最も親密な挨拶(仕草)を用いて、イエス様を裏切り、別れを告げるという行動に出ました。
前回お話ししましたように、ユダは自分なりのやり方でイスラエル王国を再建しようと考えていました。けれども、そのために神の子であり救い主であるイエス様を裏切るというのは、どう考えても本末転倒なことです。
それでも彼は、自分の思い込みと偏った判断によって、正しいことをしているつもりで行動してしまったのです。
現代でも、「なぜそのようなことが起きたのか」「なぜそのような行動に至ったのか」と思わされる事件が数多くあります。
ユダの行動は、まさにそのような現代の出来事にも通じる、人間の心の弱さや思い込みの危うさを表しているのです。
2、裏切る弟子たち
そして、積極的に裏切ったのはユダだけですが、他の弟子たちもイエス様を裏切りました。
マルコによる福音書14章50-52節を読みます。
14:50 弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
14:51 ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、
14:52 その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
この出来事は、4つの福音書すべてに記録されていますが、弟子たちの裏切りの様子を最も簡潔に、そして分かりやすく伝えているのが“マルコによる福音書”です。
14章51節に登場する《ある若者》は、伝統的にマルコ自身だと考えられています。
弟子の裏切りといえば、ペテロが3度も「イエス様を知らない」と言った話が特によく知られています。しかし、裏切ったのはペテロだけではありません。
他の弟子たちも皆、消極的ではあっても、結果的にはイエス様を見捨て、逃げてしまったのです。つまり、12人の弟子たちは、イエス様の愛や仕える姿勢を近くで見ていたにもかかわらず、それを心から受け取り、最後まで忠実に実行できた人はいなかったということです。
つまり、多くの弟子たちが、実際には「イエス様の弟子としてふさわしい」とは言えなかったという事実を、忘れてはならないのです。
3、ユダの末路
マタイによる福音書27章1-5節を読みます。
27:1 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、
27:2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。
27:3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して
27:4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
27:5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
ユダは、自分のしていたことが間違っていた。つまり、目的と手段が逆になっていた・・・ということに、ようやく気づいたのでしょう。
そして、自分の過ちに気づいたユダは、その失敗に深く絶望しました。
しかし、彼にとって本当に不幸だったのは、失敗そのものではありません。それ以上に大切なのは、「悔い改める」ことができなかったという点です。
なぜなら、ユダは心からイエス様を主(しゅ)として信じていなかったからです。
ここで、聖書の中でも特に重要とされる箇所を一つ見てみましょう。詩編51編17節です。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
この《かろしめられません。》という言葉は、現代の言葉で言い換えると「神さまはそれを最も大切に、重く受け止めてくださる」という意味になります。
最後までユダは、自分自身を主(しゅ)とし、自分の判断と価値観を頼りにしていました。
そのように、自分を中心に生きる人にとって、失敗は取り返しのつかないものとなり、結局、自分を責めるしかなくなってしまったのです。
一方、他の弟子たちも失敗し、自分に絶望した点ではユダと同じでした。しかし、彼らは主であるイエス様に受け入れられ、励まされ、もう一度立ち上がることができたのです。
(その違いが大きな分かれ道となりました。)
4、イスカリオテのユダから学ぼう
イザヤ書28章15-16節を読みます。
28:15 あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。
28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。
このイザヤの預言は、イエス様の12人の弟子たちによって実際に実現しました。
弟子たちにとってそれは、大きな試練であり、深い苦しみの経験でもありました。けれども、どんな状況の中にあっても、イエス様を主(しゅ)として信じ続けた者は、決して失望で終わることはありませんでした。
イスカリオテのユダと他の弟子たちの違いは、そのときすぐには分かりませんでした。しかし、あとになってそれぞれがどんな生き方をしたのか、どんな結末を迎えたのかによって、その違いがはっきりと見えるようになったのです。
さて、ここであなた自身に問いかけてみてください。
あなたにとって「主」とは誰でしょうか?
あなたの心の中にある“主”は、あなた自身でしょうか。また、あなたの“主”は、あなたの人生を最後まで導くことができる御方でしょうか?
いま一度、自分の心を見つめ直す時としていただけたらと思います。
2025年11月23日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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