ショートメッセージ【トマス】
ヨハネによる福音書20章24-29節
ヨハネによる福音書11章6-8節、16節
ヨハネによる福音書14章1-5節
(見ずに信じる幸いを教えられた人)
1、信じないと言ったトマス
2、信じたトマス
1、信じないと言ったトマス
ヨハネによる福音書20章24-25節を読みます。
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
この前の箇所では、隠れていた弟子たちに対して、イエス様が、彼らの前に姿をあらわされた状況が記されています。彼らは直接イエス様を見たことによって、ようやくイエス様がよみがえられた事実を受けとめることができました。
復活されたイエス様にお会いした彼らは、誰一人疑いを持つことなく、復活の証人としての信仰に立つ準備ができました。
ただ、そこになぜかトマスだけがいなかったのです。
トマスが戻ってくると、他の弟子たちが、よみがえられたイエス様にお会いしたこと、復活の証人として遣わされることを口々に伝えたのでしょう。
しかし、トマスは他の弟子たちから聞かされた話をかたくなに否定したのです。
このトマスが登場する他の箇所を見ましょう。
ヨハネによる福音書11章6-8節です。
11:6 ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。
11:7 それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。
11:8 弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。
続けてヨハネによる福音書11章16節を読みます。
11:16 するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。
この場面は、ラザロがよみがえる少し前の出来事です。ユダヤ人たちはすでにイエス様に強い敵意を抱き、殺そうとさえしていました。そんな危険な状況の中で、イエス様は「もう一度ユダヤに行こう」と言われたのです。
それを聞いたトマスは、イエス様と一緒に行けば自分たちも命の危険があると覚悟し、《「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。》と他の弟子たちに呼びかけました。
この言葉から、トマスがイエス様をどれほど信頼していたかがわかります。そしてその後、トマスはラザロがよみがえる奇跡を目の当たりにし、イエス様こそ救い主であると、さらに深く確信するようになったことでしょう。
ヨハネによる福音書14章1-5節を読みます。
14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
14:5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
この箇所では、イエス様が弟子たちに《「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。》と語りかけておられます。そして、《わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。》と約束され、《そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。》と言われました。
さらにイエス様は、《わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。》とおっしゃいましたが、それを聞いたトマスは、正直にこう答えました。《「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。》
つまり、トマスには、イエス様が「父なる神さまのもとへ行く」という意味が理解できなかったのです。イエス様を救い主として信じてはいましたが、その言葉の真意、天に昇ること、霊的な世界のこと、まではまだ理解できていませんでした。
それでも、イエス様が《心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。》(14章1節)とか《わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。》(14章18節)と語られた言葉に、トマスは心のどこかで安心を覚えていたようです。
ここからわかるのは、トマスにはイエス様に従いたいという信仰はあっても、自分の理解の枠を超えた霊的な真理―“神さまのご計画”―をすぐに受け入れることは難しかったということです。
そうした中で、イエス様が十字架で本当に死なれるという現実に直面し、さらに後日、マグダラのマリヤや仲間の弟子たちが「イエス様はよみがえられた!」と証しするのを聞いたとき、トマスは混乱します。彼の中で、現実的な常識や理性がそれを受け入れられず、思わずこう言い放ってしまいました。《「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。》
この言葉は、トマスの正直な疑いと苦しみ、そして信じたいけれど信じきれない葛藤を表しています。
2、信じたトマス
トマスが復活されたイエス様と実際にお会いするのは、それから8日後のことです。
彼は最初、とても強い拒否反応を示しましたが、その後の8日間の間に信仰を捨ててしまうことはありませんでした。
トマスは、イスカリオテのユダのように失望してイエス様から離れてしまうことはなかったのです。
どうしてトマスはそうならなかったのでしょうか。
ユダは、自分の考えや常識、経験といった「人間の理解の範囲」だけを頼りにして、それ以外のこと、つまり神さまのご計画や霊的な真理を受け入れなくなってしまいました。
そして、イエス様が本物のキリストではないと思い込み、「イエス様を排除することこそが神の望みだ」と誤った判断をしてしまいました。
その結果、これまでイエス様と歩んできた中で受け取っていた神さまの思いや霊的な真理をすべて捨ててしまったのです。
一方、トマスは違っていました。
彼もまた、自分の理解では納得できないことに直面しましたが、それを頭ごなしに否定して切り捨てることはしませんでした。
たとえ分からなくても、「そういうことがあったのだ」と、一時的に心の中にしまっておく、棚上げすることができたのです。
だからこそ、後になって復活されたイエス様に出会ったときに、それらを霊的な真実として素直に受け入れることができたのです。
実は、私自身も似たような経験をしたことがあります。
教会に通い始めて聖書に触れたとき、「聖書には人生やこの世界に関する真理が書かれている」と感じました。
けれども、イエス様の復活の話だけは、どうしても受け入れることができませんでした。
それでも、「復活なんて非常識だから」と言って、聖書全体を否定してしまうことはしませんでした。
わからない部分はわからないままで置いておく・・・。それができたおかげで、やがて、ご聖霊の導きによって霊的な真実を信じるようになり、信仰を持つことができました。
今思えば、それは本当に神さまの恵みだったと感謝しています。
実際、他の弟子たちもトマスと同じようなところがありました。
彼らも、すぐに霊的な真理を受け入れたわけではありません。
マグダラのマリヤが「イエス様はよみがえられた」と伝えたときも、すぐには信じられず、半信半疑だったのです。
けれども、復活されたイエス様が実際に目の前に現れてくださったとき、弟子たちはそれまでのイエス様との経験である“教え”“導き”“奇跡”を思い出し、「神さまのお言葉に偽りはない」「イエス様が言われたことは本当だった」と確信し、しっかりと信仰に立つことができたのです。
ヨハネによる福音書20章26-29節を読みます。
20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
トマスは、他の弟子たちよりも、日常の常識や自分の経験、知識に強くとらわれやすい性格だったのでしょう。イエス様はそのことをよくご存じだったのだと思います。
だからこそ、他の弟子たちが復活されたイエス様に出会ってから少し時間をおいて、8日後にトマスの前に現れてくださいました。
この出来事からも、イエス様が一人ひとりの弟子を深く愛し、それぞれに合ったタイミングと方法で関わってくださるお方であることがよく分かります。トマスのように疑いや迷いをもった人にも、イエス様は見捨てることなく、最後まで忍耐強く向き合い、信じるところへ導いてくださるのです。
もう一度、ヨハネによる福音書20章28節を読みます。
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
このトマスの発した言葉はとても印象的です。
トマスは単に《わが主よ》と呼んだだけではなく、「あなたこそが命の創造者であり、力の源であり、すべての光のもとである、わたしの神です」と心から告白したのです。
つまり、イエス様を「神さまに遣わされた特別な人」としてではなく、「まさに神さまご自身である」と信じて、その信仰をはっきりと言い表したのです。
ヨハネによる福音書20章29節を読みます。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
トマスが《「わが主よ、わが神よ」。》と信仰を告白したとき、イエス様は《「…見ないで信ずる者は、さいわいである」》と言われました。これは、トマスを責めているのではありません。「あなたは私を見て信じたが、すべての人がこのように直接見る経験ができるわけではない。だから、見ずに信じることができる人は、もっと大きな祝福を受けるのです」という、励ましの言葉です。
信仰の歩みはいつも、目に見える現実や、自分の経験・知識・常識に頼ろうとする心と、見えない神さまの真理を信じようとする心との間で揺れ動きます。
「なぜこんなことが起こるのか」「神様は本当におられるのか」と思わされるような状況の中でも、神さまのご計画がすべてを益としてくださるという御言葉の真実を、信じて歩むことが求められています。
私たちはすぐに信じきれないこともあります。聖書の言葉や神様の約束に対して、「どうしても納得できない」と思うこともあるでしょう。それでも、すぐに否定して捨ててしまうのではなく、わからないままでも心の片隅にとどめ、あたためておくことが大切です。
トマスもそうでした。最初は疑い、復活の証言をすぐには信じませんでしたが、マリヤからの報告、弟子たちの証言、そして最後にイエス様ご自身と出会うことで、信仰に導かれていきました。
このようにイエス様は、一人ひとりの歩みに合わせて、段階を経て丁寧に導いてくださるお方です。
《見ないで信ずる者は、さいわいである》というイエス様のお言葉は、私たちへの招きでもあります。
もし、すぐに信じることができなくても、神さまは私たちを見放すことなく、信じられるように導いてくださいます。
だからこそ、信仰をあきらめず、イエス様から離れないでいることが大切なのです。
その歩みの中で、私たちも「見ずに信じる」幸いな信仰者として、日々整えられていくのです。
2025年12月14日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
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もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
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