ショートメッセージ【パウロ】

使徒行伝22章1-10節、17-21節
ピリピ人への手紙3章4-9節
テモテへの第一の手紙1章13-15節
コリント人への第二の手紙11章23-30節

(人間的に優れていることを損と思う人、神の器として用いられた人)

1、パウロの背景
2、キリストによる回心
3、弱さを誇る

1、パウロの背景
 使徒行伝22章1-5節を読みます。

22:1 「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」。
22:2 パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。
22:3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。
22:4 そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。
22:5 このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。

 パウロは、現在のトルコ南部にあるタルソという町で生まれたユダヤ人でした。そして、もともとローマ市民の身分も持っていました(使徒行伝22章28節)。このローマ市民権は、当時の社会で大きな特権とされていて、身分や権利がしっかりと守られるものでした。
 ローマ帝国が支配していた広い地域で、パウロは伝道の旅をする中でも、ローマの法律に守られながら活動することができたのです。
 ピリピ人への手紙3章4-6節を読みます。

3:4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

 パウロは、イスラエルの十二部族の一つであるベニヤミン族の出身です。この部族は、かつてイスラエルの国が北と南に分裂したときも、ユダ族に忠実に仕えたことで知られています。またパウロは、ユダヤ教の中でも特に厳しく律法を守るパリサイ人であり、当時のユダヤ人の間で非常に尊敬されていた教師ガマリエルのもとで学びました。さらに、ヘブル語だけでなくギリシャ語も自由に話せる語学力を持っていました。

 このように見ると、パウロは社会的にも宗教的にも非常に優れた人物で、誇るべき点がいくつもあったのです。なお、使徒行伝13章9節までは、彼の名前はヘブル語読みで「サウロ」と呼ばれています。「パウロ」という名前は、ギリシャ語での読み方です。

2、キリストによる回心
 使徒行伝22章6-10節を読みます。

22:6 旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。
22:7 わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。
22:8 これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。
22:9 わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。
22:10 わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。

 パウロは、自分の信念を貫き、キリストを信じる人たちを男も女もかまわず捕らえて牢に入れ、時には死に至らせるほど、激しく迫害していました。
 しかしある日、ダマスコという町に向かう途中で、イエス・キリストに出会い、そこで大きく心を変えられたのです。
 ピリピ人への手紙3章6-9節を読みます。

3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 またパウロは、自分が持っていたこの世での特権や、誇りに思えるすべてのものを、キリスト・イエスの前では何の価値もないものだとはっきり言い切っています。むしろ、それらは損だとさえ考えているのです。
 テモテへの第一の手紙1章13-15節を読みます。

1:13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。
1:14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

 またパウロは、自分が神さまの前では最も罪深い者だという自覚を持ちながらも、そんな自分が主のあわれみによって生かされていることを深く感じているのです。

3、弱さを誇る
 使徒行伝22章10節と使徒行伝22章17-21節を続けて読みます。

22:10 わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。

22:17 それからわたしは、エルサレムに帰って宮で祈っているうちに、夢うつつになり、
22:18 主にまみえたが、主は言われた、『急いで、すぐにエルサレムを出て行きなさい。わたしについてのあなたのあかしを、人々が受けいれないから』。
22:19 そこで、わたしが言った、『主よ、彼らは、わたしがいたるところの会堂で、あなたを信じる人々を獄に投じたり、むち打ったりしていたことを、知っています。
22:20 また、あなたの証人ステパノの血が流された時も、わたしは立ち合っていてそれに賛成し、また彼を殺した人たちの上着の番をしていたのです』。
22:21 すると、主がわたしに言われた、『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』」。

 パウロはイエス様から、ユダヤ人ではない人々(異邦人)への宣教の働きに遣わされました。
 それまで自分が誇りにしていた血筋や経歴、身分など、すべてを価値のないものと考え、イエス・キリストだけを信じて歩んでいきました。
 体の弱さや、次々と襲ってくる困難にもかかわらず、パウロは自分の弱さの中にキリストが働いてくださっていることを実感し、神さまの働きのために用いられたことを証ししています。
 コリント人への第二の手紙11章23-30節を読みます。

11:23 彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。
11:26 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
11:28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
11:29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。
11:30 もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。

 続けて、コリント人への第二の手紙12章7-9節を読みます。

12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

 私たちがパウロの生き方から学ぶべきことは、まことの神さまであるイエス・キリストを信じ受け入れると、ものの見方が根本から変わるということです。

 パウロは、《わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。》(ピリピ3章7節)と語っています。この言葉は、私たちの心にも深く響くものです。

 私たちがこの世で求めがちな、資産や地位、名誉、人からの評価や見せかけの誇りは、一見価値のあるように見えても、ほんとうの意味での「人としての益」とはなりません。
 今私たちが生きている環境や立場も、すべて神さまから与えられているものです。だからこそ、世間の価値観や人の目ばかりを気にして生きるのではなく、与えられた場所で、神さまから与えられた役割に誠実に向き合うこと、それこそが、本当の幸せなのだと教えられます。

 私たちは、自分の力だけで自分を守りきれる存在ではありません。むしろ、不完全で弱いままで大丈夫なのです。
 その弱さを隠さずにイエス様にゆだねるとき、神さまはその弱さの中にご自身の力を注いでくださり、私たちを神さまの働きのための器として用いてくださいます。

 弱いままでも、神さまのために一生懸命に歩もうとする姿を、神さまは見ておられます。
そしてパウロがそうであったように、私たちが困難に直面するときも、その御手で守り、必要を満たし、導いてくださるのです。

 このようにして、私たちは本来の目的・・・
 それは、神さまのために生きること、そしてその中にある “喜び”を経験していくことができるのです。

2025年12月28日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。

※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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 ニックネームでの参加もOKです。