メッセージ【マルコによる福音書1章_1回目】

マルコによる福音書1章1-13節
(福音の起源とイエス様の受命)

1、イエス・キリストご自身が福音
2、ヨハネの証しと、さらに力ある方
3、神の愛する子としての受命
4、現代を生きる私たちの歩みと福音の力

 今回からマルコによる福音書を学んでいきます。
 そして本日は、マルコによる福音書1章1章1~13節から「福音の起源とイエスの受命」と題してお話します。
 マルコによる福音書は、日本人のように聖書的背景を持たないローマ人に向けたものと言われており、難しい教えよりも、イエス様の行動を通じてキリストであることを示しています。簡潔で躍動感あふれる描写が特徴です。

1、イエス・キリストご自身が福音
 マルコによる福音書1章1節

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

 マルコは福音書を《神の子イエス・キリストの福音のはじめ》という力強い言葉で始めています。
 ここでいう福音、つまり「良い知らせ」とは、単なる情報ではなく、イエス・キリストご自身のことです。旧約聖書のイザヤ書40章以降に預言されていた、人々の救いをもたらす《しもべ》こそがイエス様であり、イザヤ書53章には、私たちの罪のために傷つけられ、私たちに平安を与える《しもべ》の姿が克明に描かれています。イエス様が「神の子」であるという宣言は、《イエス・キリスト》が天地を支配する神であり、人々を救う力を持つ方であるという本質を示しています。福音は理屈ではなく、人を根底から変える神の力なのです。

2、ヨハネの証しと、さらに力ある方
 マルコによる福音書1章2-8節

1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
1:5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
1:6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
1:7 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。
1:8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。

 イエス様が来られる前に、その道を整える者が現れました。それがバプテスマのヨハネです。
 そのバプテスマのヨハネは、荒野で「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えました。
 《悔い改め》とは、神さまに心を向け、罪から離れて向きを変えることです。これによって罪の赦しが与えられます。多くの人々がバプテスマのヨハネの説教に耳を傾け、罪を告白しましたが、ヨハネは、《わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。》と明確に証ししました。

 ヨハネ自身が、《かがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。》と語ったのは、イエス様の力が人間の次元をはるかに超えていることを示しています。なぜなら、イエス様は水ではなく、ご聖霊によってバプテスマを授けるからです。これは「力」のバプテスマであり、私たちを根底から変える力なのです。

3、神の愛する子としての受命
 マルコによる福音書1章9-13節

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
1:12 それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
1:13 イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。

 イエス様もヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました。
 これは悔い改めのためではなく、父なる神さまとご聖霊による任命式でした。《天が裂けて、聖霊がはとのように》くだり、天からの声がしました。《「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。》この言葉は、イザヤ書42章1節と関連しています。読んでみましょう。

42:1 わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。

 の《わたしの支持するわがしもべ》です。父なる神さまが、愛する御子イエス様に、救いをもたらす《しもべ》としての使命を託されたことを示しています。

 バプテスマの後、イエス様はご聖霊によって荒野に追いやられ、40日間サタンの試みにあわれました。
 イエス様が悪魔と悪霊の働きを滅ぼすために来られたからです。この荒野での勝利が、イエス様が悪霊を追い出し、病をいやし、最終的にご自身のいのちを捧げられる、その後の働き全ての基礎となりました。福音は、この悪が滅ぼされる形で現れていくのです。
 このイエス・キリストこそ、私たちの人生を根底から変え、救いをもたらす、力ある福音そのものです。

4、現代を生きる私たちの歩みと福音の力
 イエス様がバプテスマを受け、天が裂け、ご聖霊がくだり、父なる神さまの御声が響いたこの出来事は、単なる儀式ではなく、救いの働きの大きな出発点でした。荒野での試みは、イエス様の弱さを示すためではなく、すべての闘いに勝利されるお方であることを証明するものでした。そして、この「受命」の姿は、現代に生きる私たちにも深い意味をもっています。

 私たちの人生にも、荒野のような時、“孤独”、“病”、“葛藤”などにより、将来が見えない暗闇に置かれる場面があります。しかし、イエス様が荒野で試みを退けられたように、私たちも同じご聖霊の助けによって支えられ、立ち上がる力が与えられます。信仰とは、困難が無くなることではなく、「共にいてくださる方がいる」という確かな希望の中を歩むことなのです。

 また、父なる神さまの御声《「あなたはわたしの愛する子》という宣言は、キリストを信じるすべての人に向けられています。他者の評価に揺れ動きやすい現代社会の中で、この御言葉は揺るぎないアイデンティティとなり、心をまっすぐに支える力となります。

 私たちは弱さを抱えていますが、イエス様はその弱さを責めるのではなく、寄り添い、導き、回復へと招かれます。だからこそ今日、私たちは「愛されている者」として、赦され、整えられ、福音に生きる者として、与えられた場所で主の栄光を現す歩みを始めることができるのです。

 余談ですが、マルコによる福音書は「神性(神さまのご性質)より先に“人間”イエスを示す」福音書です。
 ヨハネによる福音書は冒頭から「言(ロゴス)」としての神性を語り、マタイによる福音書は系図を通して「王」としてのイエス様を示します。

 しかしマルコは違います。
 マルコは、イエス様が地上を歩かれた“人間としての息づかい”から物語を始めます。

 ・荒野に来てヨハネに並ぶ
 ・バプテスマを受け、水から上がる
 ・天が裂け、聖霊が下る
 ・そのまま荒野で飢え、試みに遭われる

 この一つ一つが、 これは、“神”としてではなく、“人として困難に向き合うイエス様”を、生き生きと描いている場面です。

 マルコによる福音書を読んだローマ人やユダヤ人には、私たちにはない“前提知識”がありました。
 それは、
 ① 荒野=試練と神さまの臨在の象徴
 イスラエルの民の40年の荒野。
 預言者たちが神の声を受けた場所。
 人々は「荒野=神との対話と試練の場」と直観的に理解。

 ② バプテスマ=新しい時代の到来の合図
 ヨハネのバプテスマは「悔い改め」ではあるが、同時に「メシア到来の準備」という共通理解があった。

 ③ 天が裂ける=神さまのご介入の瞬間
 旧約聖書の文脈では、神さまが人間の歴史に割って入る時の象徴。
 これらは当時の人々が“身体で知っていた”象徴であり、文章を読めば直感的に意味を捉えられたのです。

 この“人間味の強いイエス様”の姿は、現代人にこそ大きな慰めと励ましを与えます。
 なぜなら、神でありながら、人として弱さの中に立ってくださったイエス様は、私たちの痛み・葛藤・試練を理解してくださるお方だからです。
 ・試みに遭われる
 ・孤独の中に立つ
 ・使命のために歩き出す
 ・見えない戦いに勝利される
これらは、現代を生きる私たちの人生そのものです。

 マルコが伝えたかったのは、「神さまは遠くの存在ではなく、人間の現実の中に最も近く来られた」のです。これは、神さまの変わらない愛とご計画が満ちている福音です。

2026年1月11日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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