ショートメッセージ【マルコの福音書2章_2】
マルコによる福音書2章13-22節
(新しい訪れと福音の心)
1、罪人との交わり:取税人レビ(マタイ)の召命と食事
2、新しいぶどう酒と新しい皮袋:断食に関する教え
1、罪人との交わり:取税人レビ(マタイ)の召命と食事
マルコによる福音書2章13-17節
2:13 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。
2:14 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
2:15 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
イエス様は再びガリラヤ湖のほとりに出て行かれ、多くの人々が集まってきたので、彼らを教えられました。湖畔の道を進む途中で、イエス様は収税所に座っているアルパヨの子レビをご覧になり、《「わたしに従ってきなさい」》と言われました。すると、レビはすぐに立ち上がってイエス様に従いました。このレビは、後にマルコによる福音書3章18節でマタイと呼ばれる人物です。
当時の取税人は、ローマ帝国の代理人として税を徴収し、規定以上の額を徴収して私腹を肥やすことが多かったため、ユダヤ人社会から非常に嫌われていました。
彼らはローマの犬と見なされ、倫理的にも悪事を働く者とされ、ユダヤ教の指導者たちは取税人との交わりを厳しく禁じていました。そのような立場にあったレビがイエス様に招かれ、すぐに立ち上がって従ったという事実は、彼の決断の大きさを物語っています。漁師たちは仕事に戻ろうと思えばいつでも戻れたのに対し、マタイ(レビ)が取税人の職を捨てることは、ほとんど再就職が不可能なほどの大きな決断であり、「もう振り返らない、戻らない」というキリストに従う道の象徴でした。
これまでのイエス様の働きを振り返ると、漁師を弟子とされ、多くの悪霊に憑かれた人々や病の中にいる人々に触れ、「汚れている」と叫ばなければならないツァラアトに冒された人に触れられました。そして、自分の罪によって中風を患ったであろう人に、罪の赦しを宣言されました。このことから、福音とは、弱き者、心貧しき者たちに対する良い知らせ であることがわかります。
その後、イエス様と弟子たちは、レビの家で食事の席に着かれました。
そこには、レビが招いた多くの取税人や罪人たち(遊女などが含まれ、ユダヤ教の中で除外されていた人々)も同席していました。彼らの中には、イエス様に興味を抱いて来た者もいれば、マタイに誘われて来た者もいたでしょう。
この光景を見たパリサイ派の律法学者たちは、驚いて弟子たちに言いました。《「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。》
当時の食事は、単なる栄養補給ではなく、共に食事をするという行為が“一つになる”という非常に親密で信仰的な意味を持っていました。これはヨハネの黙示録3章20節でイエス様が、
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
と言われたような、親密な交わりを意味します。日本の「同じ釜の飯を食べる」という表現に近く、同じパンを裂き、同じ杯を飲み交わし、低いテーブルでゆったりと肘をついて横になりながら食べる形式は、距離の近さ、親密さを表していました。パリサイ人たちにとって、汚れた者と食事をすることは、自らも汚れる行為であり、考えられないことだったのです。
しかし、イエス様はこれを聞いて言われました。17節です。《「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。》と。
イエス様は、医者と患者の喩えを用いてご自身の使命を語られました。福音は、一人ひとりが霊的に病を抱えていること、つまり“「訳あり」であることを知り、イエス様に引き寄せられる者たちのためのもの”なのです。自らを正しいと思っている高ぶりを捨てられない人々のところには、イエス様は近づかれません。
ツァラアトに冒された人にイエス様が触れられたとき、イエス様が悪に染まるのではなく、逆にその人が“きよめ”られたように、イエス様は罪人と食事をしても悪に染まるのではなく、彼らの方が罪を悔い改めて赦しを受け、霊的に癒されるのです。これは、私たちが「“きよめ”られてから」神さまに近づこうとするのではなく、等身大のありのままで神さまに近づくとき、イエス様が私たちを“きよめ”、魂を癒してくださる ことを教えています。
2、新しいぶどう酒と新しい皮袋:断食に関する教え
マルコによる福音書2章18-22節
2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
2:19 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
2:21 だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。
2:22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。
その後、人々はイエス様に尋ねました。《「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。》と。
この批判の中には、パリサイ人たちだけでなく、“バプテスマのヨハネの弟子たち”もいました。パリサイ人たちは、律法で年に一度と定められていた贖罪日の断食に加え、バビロン捕囚後の神殿破壊を記念したり、週に二度断食を行ったりしていました。これは、律法を厳格に守る熱心さを示すことで、自らが汚れから離れていることを強調する行為でした。一方、ヨハネの弟子たちは、ヨハネが牢獄にいたことによる悲しみや嘆き、そしてメシアを待ち望む悔い改めの強調から、身を戒めるための断食を行っていたと考えられます。
イエス様は、それぞれのグループが持つ断食への考え方を正しておられます。
彼らに共通していたのは、修行のような断食そのものによって、自分を神さまに近づけようとしていた点です。断食自体は御心にかなうものですが(マタイ17章21節)、それが目的化してしまい、「断食によって霊的に神さまに近づいている」と思い込んでしまうことが問題でした。
預言者イザヤも、形式的な断食を行いながら、労働者を追い立て、争いと諍(いさか)いをしている人々の偽善を批判し、神さまが選ぶ断食とは《わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。》(イザヤ書58章6節)と語っています。
イエス様は、ご自身の到来がもたらす“新しい訪れ”について、二つの譬えを用いて説明されました。
まず、マルコによる福音書2章19-20節です。《…「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。》イエス様はご自身を花婿に例え、弟子たちを花嫁の客としています。ユダヤの婚礼は盛大な祝宴であり、喜びに満ちたものです。イエス様が来られたこと自体が、喜ばしい良い知らせ(福音)であり、その時に悲しみの断食をするのは不適切だということです。
バプテスマのヨハネ自身も、イエス様が栄え、自分は衰えることを喜び、イエス様を花婿、自分を花婿の友にたとえていました(ヨハネによる福音書3章29-30節)。しかし、イエス様が《花婿が奪い去られる日が来る。》と言われたのは、ご自身の死を暗示しており、その時にこそ、弟子たちは悲しみと共に断食するであろうと語られたのです。イエス様の福音は人々に喜びをもたらしますが、そこにはイエス様ご自身の犠牲と、命の対価による罪の赦しがあることを示唆しています。
次に、マルコによる福音書2章21-22節の“新しい布切れと新しいぶどう酒の譬え”です。
《だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。》洗濯で縮まない加工がされていない新しい布切れは、縮むことで古い着物を破ってしまいます。同様に、堅くなった古い皮袋に、発酵してガスを発生させる新しいぶどう酒を入れると、皮袋が伸びないために破裂してしまいます。これらの譬えが伝えるのは、イエス様が行っておられることは、“新しい神の訪れ”であり、恵みと喜びの知らせであるということです。
罪ある人が神さまから離れなければならない、あるいは自ら離れるのではなく、罪があると認めて神さまに近づくことで、神さまが“きよめ”、魂を癒してくださる。このような新しい福音を受け入れるためには、思いや考え、心の一新が必要であり、新しい皮袋、新しい布でなければ受け入れることができません。
古いものを改良するだけでは、いつか破綻が訪れるのです。これは、私たちがイエス様を信じてから、もし前進せず、古い自分に留まっていたら、信仰的に躓きをもたらすことにつながります。パウロがコリント人への第2の手紙4章16節で《…たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。》と言ったように、ご聖霊によって日々新たにされ、イエス様と共に歩む ことが求められています。自分自身の従来のやり方の上にイエス様の働きを接ぎ木するのではなく、自分の従来のものを捨てて、新しい御霊の働きを受け入れる必要があります。
2026年2月8日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
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