ショートメッセージ【マルコの福音書11章_2】

マルコによる福音書11章12-33節、他
(イエス様の御取り計らいから)

1、いちじくの木を呪う
2、強盗の巣
3、求めるべきものとは
4、神の権威とは

1、いちじくの木を呪う
 マルコによる福音書11章12-14節を読みます。

11:12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
11:13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
11:14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

 前回、イエス様は多くの人々の熱烈な歓迎を受けてエルサレムに入られましたが、すでに時が遅かったため、その日は都にとどまらずベタニヤへ引き返されましたが、それは翌日に起こるこの“いちじくの木”の出来事を通して、弟子たちに大切な教えを示すためであったと考えられます。

 “いちじく”の実の季節ではなく、実がなっていないのは当然であるにもかかわらず、イエス様がその木を呪われた場面は一見すると理不尽に感じられますが、これは単に空腹を満たせなかったことへの怒りではなく、見た目には葉が茂り立派に見えても、いざ必要な時に実を結ばない信仰の姿を示す象徴的な行為でした。

 つまりこの出来事は、これまでイエス様と共に歩み、多くの御業を目の当たりにしながらも、なお神さまを真に信頼する心を持ちきれていなかった弟子たちに対して、「形だけ整っていても、神さまの前に“実”を結ばない信仰は意味を持たない」ということを深く考えさせるための布石であったのです。

2、強盗の巣
 そしてその記事の間に挟まれている出来事を見ましょう。マルコによる福音書11章15-18節です。

11:15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
11:16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
11:18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。

 “いちじくの木”の出来事に挟まれるかたちで記されているのが、イエス様による“宮きよめ”の場面ですが、ここでイエス様は神殿の庭で売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒し、さらに器物を運ぶための通路として神殿が使われることさえもお許しになりませんでした。

 神殿での両替やいけにえの売買そのものは、遠方から来る巡礼者が礼拝をささげるために本来必要なものであり、単純に商売行為自体が悪であったわけではありませんが、イエス様はそれを《強盗の巣にしてしまった》と厳しく指摘されました。

 つまりイエス様が問題にされたのは、礼拝を支えるための手段であったはずの商いが目的にすり替わり、神さまを礼拝し信頼する人々の信仰心を利用して利益を得ることが中心になってしまっていた、その歪んだあり方だったのです。

 この指摘は、葉は茂っていても実を結ばない“いちじくの木”と同じく、外見や制度は整っていながら、神さまの前に本来あるべき実を失っていた当時の宗教の姿を鋭く突くものであり、その核心を突かれた祭司長や律法学者たちは、悔い改めるどころか、イエス様を恐れ、ついには殺す計画を具体的に進めていくことになります。

 ここには、民を導く立場にあった宗教者たちこそが、この歪んだ構造の中心にいたという、きわめて皮肉で重い現実が浮かび上がっているのです。

3、求めるべきものとは
 そして、続きを見ましょう。マルコによる福音書11章19-22節を読みます。

11:19 夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。
11:20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
11:22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。

 夕方になるとイエス様と弟子たちはいつものように都の外へ出て行き、翌朝ふたたび道を通ると、前日に呪われた“いちじくの木”が根元から完全に枯れているのを見て、ペテロはその出来事を思い出し、イエス様にそのことを伝えました。
 この場面までを順を追って読んでくると、イエス様が“いちじくの木”を呪われたのは、単なる出来事ではなく、必要な時に実を結ぶ備えがない信仰への警告であったことが見えてきます。

 葉は茂っていても“実”を結ばない“いちじく”の姿は、メシヤが来られた時に神さまを信頼し、受け入れる心の備えができていなかった人々の姿を表しており、イエス様はそのことを弟子たちに理解させようとされたのです。
 そしてイエス様は、この一連の出来事を通して、求めるべきものは自分の判断や状況への理解ではなく、《神を信じなさい》という一点に尽きることを、弟子たちにはっきりと示されました。
 続けてマルコによる福音書11章23-26節を読みます。

11:23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
11:24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
11:25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
11:26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。

 イエス様はここで、神さまを信じて疑わずに祈るならば、不可能に思えることさえ成し遂げられることを語られましたが、それは人間の願望を思いどおりに実現するという意味ではなく、神さまへの全面的な信頼に立った祈りの力を示す言葉でした。
 さらにイエス様は、祈りと切り離すことのできない大切な条件として「赦し」を挙げられ、心に恨みやわだかまりを抱えたままでは、神さまとの関係そのものが歪んでしまうことを教えられました。

 弟子たちはイエス様から直接教えを受けながらも、しばしば神さまに信頼するより自分の考えや価値観を優先してつまずいてきましたが、イエス様はその弱さを見据えた上で、祈りとは神さまに委ね、赦しとは神さまの愛を生きることなのだと教えられたのです。
 これは当時の弟子たちだけの課題ではなく、形だけで神さまを信じているつもりになりやすい現代の私たちにも向けられた教えであり、神さまへの信頼が本物であるかどうかは、祈りと赦しという具体的な行いの中でこそ問われます。

 イエス様は限りなくいつくしみ深いお方ですが、その一方で、罪や偽善を見過ごして放置される方ではなく、人を生かすために必要であれば厳しい取り扱いをなさるお方であることも、私たちはこの箇所から深く心に留める必要があります。

4、神の権威とは
 マルコによる福音書11章27-33節を読みます。

11:27 彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、
11:28 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
11:29 そこで、イエスは彼らに言われた、「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。
11:30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
11:31 すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。
11:32 しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。
11:33 それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。

 エルサレムに戻られたイエス様が神殿の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが近づき、《「何の権威によってこれらの事をするのですか。》と問いただしましたが、彼らはすでにイエス様を殺す口実を探しており、この質問も純粋な探究ではなく、陥れるためのものでした。

 彼らが問題にしたのは、イエス様が人を癒やし、悪霊を追い出し、民をいつくしみ、神殿をきよめ、群衆から支持を集めている、そのすべての働きがどこから来ているのかという点でしたが、冷静に考えれば、その問い自体がきわめて空虚なものであったことがわかります。
 それに対してイエス様は、バプテスマのヨハネの働きが天からのものか人からのものかを問い返されましたが、宗教者たちはどちらと答えても自分たちの立場が不利になることを恐れ、「わかりません」と答えざるを得ませんでした。
 しかし実は、このやり取りそのものが答えであり、彼らが真理を求めていない以上、そこに本当の答えは存在せず、「わからない」という返答こそが彼らの霊的状態を正確に表していたのです。

 マルコによる福音書をここまで読み進めてきた私たちは、イエス様の権威が神さまから来たものであると同時に、人々を生かし導くその働きによって人々からも認められていたことをすでに知っています。

 神さまに導かれ、神さまに従い、人々を愛し、いつくしむイエス様こそが、信じ、学び、従うにふさわしいお方であることが、この場面からも明らかにされています。
 そして最後に残る《「わたしたちにはわかりません」》という言葉は、神さまを最もよく知っているはずの宗教者たち自身が、実は最もわかっていなかったという深い皮肉であり、この言葉は現代に生きるクリスチャンや教師、神学者を自認する者にとっても、決して他人事ではない重い問いかけとなっているのです。

 “いちじくの木”も、“宮きよめ”の出来事も、“弟子たちへの教え”も、当時のすべての人たち、また、私たちを神さまに赦しの道と信頼へと導くための、イエス様の御取り計らいであったのです。

2026年7月26日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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