ショートメッセージ【マルコの福音書10章_2】

マルコによる福音書10章32-52節、ほか
(信仰のあり方)

1、3度目の正直?
2、ヤコブとヨハネの願い
3、悟らない弟子たちと盲人との違いから

1、3度目の正直?
 マルコによる福音書10章32-34節を読みます。

10:32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
10:33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。
10:34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

 ここで語られているのは、イエス様がご自身の受難について語られた三度目の予告です。
 一度目は、ペテロがイエス様を《「あなたこそキリストです」》(8章29節)と告白した直後で、ペテロはイエス様をいさめたため、《「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。》(8章33節)と、非常に厳しい言葉で戒められました。
 二度目は、弟子たちの神さまへの信頼が表面的であることを警告された後(9章31-32節)で、この時は一度目の出来事を恐れたのか、弟子たちはイエス様に何も尋ねることができませんでした。
 そして三度目が、エルサレムへ向かうこの場面です。
 三回も繰り返して語られているにもかかわらず、弟子たちはイエス様の言葉の意味を理解できず、結局のところ何も悟っていなかったという点が、これらすべてに共通しています。
この「分かっていない弟子たち」という視点を押さえて読み進めると、この後に続く出来事も、より理解しやすくなるでしょう。

2、ヤコブとヨハネの願い
 マルコによる福音書10章35-37節を読みます。

10:35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。
10:36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。
10:37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。

 ヤコブとヨハネの願いは、イエス様がこれからローマを打ち倒し、イスラエル王国を再建する王となると考えたうえで、その時に自分たちを日本で言えば右大臣・左大臣のような最高の地位に就かせてほしい、というものでした。

 イエス様はすでに三度も、エルサレムへ行く本当の理由、すなわちご自身が受難と死を受けるためであることを語っておられましたが、それにもかかわらず弟子たちは何一つ理解していなかったことが、この出来事からはっきりと分かります。

 それほどまでに、当時のユダヤ人にとってイスラエル王国の再建は切実な願いであり、自分たちが何者であるかを示す強いアイデンティティでもあったのです。
 現代においても「アイデンティティ」という言葉はよく使われますが、人が生きていくうえで自分は何者かを意識すること自体は、決して悪いことではありません。
 しかし、マルコによる福音書を読み進めると、私たちのアイデンティティがいかに思い違いを起こしやすく、知らず知らずのうちに自分中心のものへと傾いてしまうかが示されています。

 神の民であると誇りながら、神さまを思うよりも、自分の願いや欲望を実現することを優先してしまう姿は、決して当時のユダヤ人だけの問題ではありません。
 神さまと“神さまのことば”に根を下ろさないアイデンティティは、結果として自分自身も、隣人も、そして神さまさえも大切にしなくなってしまうことを、ここから心に留める必要があるのです。
 続けて、マルコによる福音書10章38-40節を読みます。

10:38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。
10:39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。
10:40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

 イエス様は、ペテロに対して《「サタンよ、引きさがれ。…》と厳しく戒められた最初の場面とは異なり、ここでは弟子たちの理解の浅さを踏まえた、別の語りかけをなさっています。
 それは、これからご自身が受ける苦しみや受難を、彼らも共に引き受ける覚悟があるのか、という問いでした。

 ヤコブとヨハネは、その言葉の本当の意味を理解してはいませんでしたが、イスラエル王国の再建のためであれば、どれほどの苦労であっても惜しまないという思いから、「できます」と答えたのでしょう。
 しかしイエス様が語られた《「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。》という言葉は、十字架の後、彼らが悟りを得たのちに直面する苦難と迫害を指していたと考えられます。
 実際、ヤコブは神さまへの信頼ゆえにヘロデ王によって命を奪われ、ヨハネは長い生涯の中で迫害と苦しみを受けながら、イエス様の母マリヤを引き取り、多くの教会を支え続ける道を歩みました。
 そのうえでイエス様は、神の国における立場や役割は人が決めるものではなく、神さまに委ねられているのだと教えられましたが、この時点では弟子たちはまだ、その意味を理解することができなかったのです。

3、悟らない弟子たちと盲人との違いから
 マルコによる福音書10章41-45節を読みます。

10:41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
10:44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
10:45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 ヤコブとヨハネの願いを聞いたほかの弟子たちは腹を立てましたが、その反応自体が、彼らもまた同じ思いを心の奥に抱えていたことを示しています。
 そのような悟らない弟子たちに対して、イエス様は世の支配のあり方と、神の国における生き方との違いをはっきりと示されました。

 この世では、権力を持つ者が人の上に立ち、支配し、力を振るうことが「偉さ」と考えられがちですが、イエス様は弟子たちの間では決してそうあってはならないと言われます。
 神の国において偉くなりたい者は人に仕える者となり、先頭に立ちたい者は、すべての人の僕となるべきだと教えられたのです。

 なぜなら、人の子であるイエス様ご自身が、仕えられるためではなく、仕えるために来られ、最後には多くの人を救うためにご自身のいのちを与えられたからです。
イエス様は、当時の弟子たちにはこの教えをすぐに理解できないことを、十分承知しておられたでしょう。

 それでもこの言葉は、一度はイエス様を裏切ることになる弟子たちが、やがて神さまと人に仕える者として生き、殉教に至るまで歩んでいくことを見据えた、深い愛に基づく教えでした。
 人が成長するには時間がかかりますが、その成長を待ち、忍耐をもって導いていかれるイエス様の姿勢から、私たちも多くを学ぶ必要があるのです。
 続けてマルコによる福音書10章46-52節を読みます。

10:46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
10:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10:50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10:52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

 イエス様と多くの群衆に囲まれた中で、盲人バルテマイが叫び続ける姿は、現代の日本社会に置き換えるなら、「空気を読めない迷惑な人」と受け取られてしまうかもしれません。
 周囲の人々は彼を黙らせようとしましたが、バルテマイはそれでも叫ぶことをやめず、周りの常識や価値観よりも、イエス様を求める思いを優先しました。
 その叫びに、イエス様は立ち止まり、彼を呼び寄せられ、そしてその願いを真正面から受け止められました。

 イエス様が《あなたの信仰があなたを救った》言われたのは、単に目が見えるようになったという出来事以上に、彼のイエス様に向けられた真っ直ぐな信頼そのものを指しているのです。
 それは、かつて何もかも捨ててイエス様に従い始めた弟子たちが、いつの間にか「誰が一番偉いのか」を気にするようになってしまった、その時点では失っていた信仰の姿でした。
 イエス様はバルテマイに《行け》と言われましたが、彼はそのままイエス様について行く道を選びました。

 この盲人の姿は、弟子たちが最初に抱いていた、ただイエス様を求め、従おうとした純粋な姿を映し出しています。だからこそ、この場面は、今を生きる私たち自身が、何を大切にして歩んでいるのか、そして初めの愛から離れていないかを、静かに問いかけているのです。
 最後に、ヨハネの黙示録2章4-5節を読んでメッセージを終わります。

2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

2026年7月12日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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