ショートメッセージ【マルコの福音書11章_1】
マルコによる福音書11章1-節、ほか
(エルサレムへ)
1、預言の成就
2、イエス様への祝福
3、本当の希望とは
1、預言の成就
マルコによる福音書11章1-7節を読みます。
11:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
11:2 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。
11:3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。
11:4 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。
11:5 すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。
11:6 弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。
11:7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
イエス様がエルサレムに入られる直前、オリブ山のふもとで二人の弟子を遣わし、まだ誰も乗ったことのない“子ろば”を連れて来るよう命じられた出来事は、偶然や思いつきではなく、神さまのご計画に基づいた意図的な行動でした。
イエス様があえて“子ろば”に乗ってエルサレムに入られた理由は、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節に記された「王は柔和な者として、ろばの子に乗って来られる」という預言を成就するためでした。
ゼカリヤ書9章9節を読みます。
9:9 シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
つまりこの場面は、イエス様が救い主であり、同時にまことの王であることを、御言葉を通して静かに、しかしはっきりと示す出来事だったのです。
特に注目すべきなのは、“ろば”の持ち主と思われる人物が、《主がお入り用なのです。》という弟子たちの言葉を聞いて、抵抗することなく“子ろば”を差し出した点です。
マルコによる福音書全体の流れを見ると、イエス様がこれまでに多くの人を癒やし、悪霊を追い出し、力あるわざを行い、御言葉を、権威をもって語ってこられたことが繰り返し描かれています。
そのような背景の中で、メシアを待ち望んでいた人々が、ゼカリヤ書の預言とイエス様の姿を重ね合わせ、「“子ろば”に乗って来られる王こそ、あのイエス様なのではないか」と理解したと考えるなら、“ろば”を貸した行為はきわめて自然な応答だと言えるでしょう。
2、イエス様への祝福
マルコによる福音書11章8-10節を読みます。
11:8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。
11:9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
11:10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
“子ろば”に乗ってエルサレムに入られるイエス様を、多くの人々が喜びをもって迎え、自分たちの上着や葉のついた枝を道に敷いて祝福しました。
この行為は、当時の人々にとって特別な意味を持つもので、王や高貴な人物を迎える際に道を飾り、敬意と喜びを表すための象徴的な振る舞いでした。
現代でも、結婚式や式典で花道が用意されるように、この場面は「祝福」「歓迎」「期待」を目に見える形で表した行動だと理解すると分かりやすいでしょう。
つまり、エルサレムの人々はイエス様を、自分たちを救ってくれる方、そして新しい時代をもたらす王として迎えていたのです。
では、なぜ“子ろば”の主人も、エルサレムの人々も、このような仕方でイエス様を迎えたのでしょうか。その理由は、次の三つに整理できます。
一つ目は、ゼカリヤ書9章9節に記された預言が成就したと受け止められたことです。ユダヤ人は決して完全に神さまに従っていたわけではありませんが、御言葉そのものは代々教えられており、長い苦難の歴史を歩んできた民にとって、メシアへの期待が非常に大きかったことは想像に難くありません。
二つ目は、これまでのイエス様のお働きです。多くの人を癒やし、悪霊を追い出し、力あるわざを行い、御言葉を、権威をもって語る姿を通して、人々はイエス様に確かな希望を見いだしていました。イザヤ書9章6節で預言された《平和の君》、《大能の神》という表現が、現実の出来事として目の前で重なって見えたのです。
イザヤ書9章6節です。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
三つ目は、イエス様が実際に人々に寄り添い、愛をもって関わり続けてこられたことです。ヨハネが「イエスは自分の者たちを最後まで愛し通された」と証ししているように、イエス様の姿勢そのものが、人々の心を動かしていました。
ヨハネによる福音書13章1節です。
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
マルコは、こうしたイエス様の姿を、作り話ではなく現実の出来事として書き記しました。
この背景を理解しないまま読むなら、この場面は美しく感動的な物語に見えるかもしれませんが、実際には、イエス様の生き方と御言葉が人々の期待と重なり合った、きわめて現実的な出来事だったのです。
3、本当の希望とは
マルコによる福音書11章11節を読みます。
11:11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
イエス様はこうしてエルサレムに到着され、神殿に入ってすべての様子をご覧になった後、すでに夕方になっていたため、十二弟子と共にベタニヤへ戻られました。
イエス様と弟子たちは、ベタニヤからエルサレムへ向かい、再びベタニヤへ帰るという静かな往復をしていますが、この一見何事も起こらないように見える行動の中に、深い意味が含まれています。
マルコによる福音書を順を追って読んでいけば、ある程度、理解できる内容です。
弟子たちもエルサレムの人々も、イエス様の働きをよく知りながら、自分たちの願いや期待をイエス様に重ね合わせていました。
人々が求めていたのは、自分たちの苦しみをすぐに取り除き、状況を好転させてくれる救いであり、イエス様が示そうとしていた福音の本質とは、そこに大きな隔たりがあったのです。
イエス様の生き方そのものは、マルコが伝えようとした「福音とは何か」をはっきりと表していましたが、それを本当の意味で理解していた人は、ほとんどいませんでした。
華やかに迎えられながらも、その内側でイエス様が感じておられた孤独と忍耐を思うとき、私たちはこの場面を単なる出来事として読み過ごすことはできません。
この箇所は、私たち自身がイエス様に何を求め、何を祈っているのか、そして「本当の希望」とは何なのかを問い直す出発点に立たせてくれるのです。
次回は、この問いが具体的にどのような形で示されていくのかを、引き続き見ていきたいと思います。
2026年7月19日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、準備をしております。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。

