ショートメッセージ【マルコの福音書10章_1】
マルコによる福音書10章、ほか
(それぞれのキリストに対する態度から)
1、試みる人たちに対して
2、幼な子に対して
3、興味から尋ねる人に対して
4、弟子たちに対して
1、試みる人たちに対して
マルコによる福音書10章1-12節を読みます。
10:1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。
10:2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。
10:3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。
10:4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。
10:5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。
10:6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。
10:7 それゆえに、人はその父母を離れ、
10:8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。
10:9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
10:10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。
10:11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。
10:12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。
いま、読んだ箇所を理解するために申命記24章1節を読みます。
24:1 人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。
イエス様がユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれると、再び多くの群衆が集まり、いつものように教えを語っておられましたが、その中でパリサイ人たちが近づき、《「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。》と質問し、イエス様を試そうとしました。
イエス様はすぐに答えるのではなく、《「モーセはあなたがたになんと命じたか」。》と、問い返され、彼らは《「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。》と、答えますが、イエス様はそれに対して、《「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。》と指摘されました。
そしてイエス様は、天地創造の初めに立ち返り、《『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。》と語られ、結婚とは人の都合で壊してよい関係ではなく、《神が合わせられたものを、人は離してはならない」。》とはっきり示されました。
この教えをより理解するために申命記24章1節を見ると、離婚が許されるのは「恥ずべき事実」があり、しかも明確な根拠がある場合に限られており、気持ちが変わったから、好まなくなったからという理由では認められていないことがわかります。
つまり当時のイスラエルの民は、神さまが創世記で示された「男女が一体となる」という原則を守らず、離婚を安易に認める方向へと心が傾いていたことが、この律法の背景から浮かび上がってくるのです。
パリサイ人たちは「モーセが許した」と主張しましたが、イエス様が示された通り、それは神さまの本来の御心ではなく、人間のかたくなさに対する妥協的な措置にすぎませんでした。
当たり前のように離婚を認める風潮は、律法そのものではなく、それを人間の都合で解釈した言い伝えや規則(ミシュナーやタルムッド)の影響であり、そこから人間がいかに罪深く、自分に都合よく神さまの教えを曲げてしまう存在であるかがよく分かります。
結果として、イエス様を試そうとしたパリサイ人たちは、神さまの本来の御心を示され、何も言い返せなくなってしまったのです。
2、幼な子に対して
マルコによる福音書10章13-16節を読みます。
10:13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
10:14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
10:15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
10:16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
人々が幼な子たちをイエス様に触れていただこうと連れて来たところ、弟子たちはそれを見て止めようとしましたが、その様子をご覧になったイエス様は強い憤りを示され、《「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。》と語られました。
さらにイエス様は、《だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。》とはっきり教えられ、実際に幼な子たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。
しかし弟子たちは、すでに9章36–37節で、
9:36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
9:37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
と教えられていたにもかかわらず、その意味をまったく理解していなかったことを、マルコはここで改めて強調しています。
これまで繰り返し見てきたように、弟子たちは“師”のそばにいながら、なかなか悟ることができない存在でしたが、それでもイエス様は彼らを見放すことなく、変わらず教え続けておられます。
この場面で私たちは、弟子たちの未熟さ以上に、忍耐と愛をもって関わり続けるイエス様の姿をはっきりと見ることができます。
イエス様は幼な子たちを抱きしめ、祝福されましたが、それは幼な子が最も理解できる形で愛を示された行為であり、当時のラビの姿をはるかに超えた、まことのキリストとしての姿であったと言えるでしょう。
この師の姿は、後に弟子たちが宣教へと遣わされていく中で、人々とどのように向き合うべきかを示す、大切な模範となったに違いありません。
3、興味から尋ねる人に対して
マルコによる福音書10章17-22節を読みます。
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
10:19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
10:20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
10:21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
10:22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
イエス様が道を歩いておられると、一人の人が走り寄って来て、ひざまずき、《「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。》と尋ねました。
イエス様はまず、《「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。》と返され、続いて《『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。》と、律法の教えを挙げられました。
するとその人は、《「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。》と自信をもって答えます。
しかしこの言葉には、神さまの前で自分の弱さを見つめる姿勢は見られません。
弟子たちは不完全であっても、イエス様をキリストと信じ、自分の人生をかけて従っていましたが、この人はイエス様を《よき師》と呼び、人生の助言をくれる立派な人物として見ているに過ぎませんでした。
現代で言えば、セミナーや相談の場に行って、役立つ話を聞こうとするような姿勢に近いでしょう。
彼は裕福で、生活にも心にも余裕があり、「せっかくなら永遠のいのちも手に入れたい」という関心から質問していたのです。
イエス様はその人を責めるのではなく、目を留め、いつくしみをもって語られました。
《「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。》
この言葉は、貧しくなること自体を求めたものではありません。
お金と神さまと、どちらを本当に頼りとしているのかを、その人自身に示すための言葉でした。
彼はその意味を理解し、悲しみながら立ち去ります。多くの財産を持っていたからです。
この姿から、興味本位でイエス様に近づく人は、自分の弱さを認めることができず、神さまを主として従うところまで進めないことが教えられます。
4、弟子たちに対して
マルコによる福音書10章23-27節を読みます。
10:23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
10:24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
10:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
10:26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
裕福な人が悲しみながら立ち去ったあと、イエス様は弟子たちを見渡して言われました。《「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。》この言葉に弟子たちは驚き戸惑いますが、イエス様はさらに、《富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。》と語られました。
当時の人々は、富や社会的地位のある人は神さまに祝福された存在だと考えていました。そのため弟子たちは、《「それでは、だれが救われることができるのだろう」。》と強い衝撃を受けたのです。
それに対してイエス様は、《「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。》と答えられました。
ここで示されているのは、救いは立場や財産、努力によって得られるものではなく、“神さまにより頼むことによって与えられる”という本質です。どのような状況にあっても、神さまに信頼を置く者に、永遠のいのちは開かれているのです。
マルコによる福音書10章28-31節を読みます。
10:28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。
10:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、
10:30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
10:31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
ペテロは、《「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。》と率直に語ります。それに対してイエス様は、福音のために大切なものを手放した者は、今の時代でも、また来るべき世においても、神さまから豊かな恵みと永遠のいのちを受けると約束されました。
そしてイエス様は、《多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。》と語られました。
弟子たちは決して立派な存在ではなく、成長も遅く、イエス様に多くの忍耐を強いる者たちでした。しかしイエス様は、そうした弟子たちを見捨てることなく導き続けられました。
彼らは富や地位を持つ人々ではありませんでしたが、イエス様に従うことで、永遠のいのちを与えられる者となったのです。まさにこの言葉どおり、世では「先」に見える人々が後となり、神さまに従った者たちが「先」とされることが示されています。
人生は一瞬のように過ぎ去ります。年を重ねるほど、その短さを実感するでしょう。しかし、イエス様が約束された《永遠の生命》は終わることがありません。
この限られた人生の中で、私たちは何を最も大切にして生きているのか。
この問いが、今も私たちに投げかけられているのです。
2026年7月5日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
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まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、準備をしております。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
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