ショートメッセージ【マルコの福音書13章_3】

マルコによる福音書13章28-37節
(終わりの日の備え②)

1、世の終りの先にある希望
2、永遠に堅く立つ人生
3、目をさましていなさい

1、世の終りの先にある希望
 マルコによる福音書13章28-30節を読みます。

13:28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
13:29 そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。

 13章27節までのところでは、弟子たちの質問に答える形で、世の終りにはどのようなしるしが現れるのか、何が合図となるのかについて語られてきました。
 ではここで、イエス様は、いちじくの木のたとえを用いて、同じように前兆を見逃さないように注意しなさい、と繰り返しておられるのでしょうか。

 そうではないと受け取ることができます。
 ここで示されているのは、恐れや不安の視点ではなく、神さまの視点に立って世の終りを見るということです。

 信仰者にとって、世の終りとは何を意味するのか。
 それを正しく受けとめ、神さまのご計画を知り、そのご計画に基づいて、終りの時に備えた信仰の歩みをするように、と教えられているのです。

 この“いちじくの木”のたとえは、終りの合図を見逃すな、という警告ではありません。
 世の終りに向かって、これまで語られてきた前兆が一つ一つ順に起こり、そして最後に、再臨のキリストが来られる、その確かな約束に目を留めなさい、という招きなのです。

 信仰者は、世の終りに伴うさまざまな現象や、終りそのものへの恐れに目を向けるのではありません。
 一つまた一つと起こる出来事の中に、これこそが神さまのご計画であり、信じる者たちを祝福の中へ迎え入れる時が近づいている、そのためにイエス様がすぐそこまで来てくださっている、という希望を見るようにと教えられています。

 そして、終りに向かう一つ一つのしるしが、すべて順序だって起こりきるまでは、この世界は決して滅びないのだ、とイエス様は語られます。
 だからこそ、あわてる必要はなく、パニックになる必要もありません。

 神さまは、人が予想を超える出来事に直面すると、あわてふためいてしまう弱さを持っていることを、よくご存じです。
 だからこそ、《これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない》と語り、決して恐れに支配されないようにと導いておられるのです。

 すべては神さまの深いあわれみとご計画の中で進められています。
 そのご計画に信頼を寄せ、これから先に備えられている神さまの恵みと希望に目を向けて歩むように、と私たちは招かれているのです。

2、永遠に堅く立つ人生
 マルコによる福音書13章31節を読みます。

13:31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。

 イエス様はここで、神さまのご計画に信頼し、その恵みに期待してよい理由をはっきりと語っておられます。
 時が来れば、私たちが生きているこの地上も、それを支えている天地も、やがて滅び去ってしまいます。しかし、その中でただ一つ、決して滅びることのないものがある。それが、私たちに向かって語られてきた《わたしの言葉》だ、とイエス様は言われるのです。

 私たちは、天地が崩れ去ると聞くと、自分を支えているものがすべて失われ、どこにもつかまることができなくなるように感じます。
 もはや自分を支えるものは何もない、そう思ってしまうのです。

 しかし、イエス様はそうではない、と語られます。
 主のお言葉だけは決して変わることがなく、その約束のとおりに、私たちを滅びから救いへと引き上げ、永遠へとつながる道に置いてくださいます。
 そして、その道の上で、私たちの足元を主ご自身が支え、永遠の御国に入る時まで、確かに導いてくださるのです。

 確かに、目の前で恐れを覚える出来事が起こる時はやって来ます。
 しかし、神さまのお言葉を握り、その約束にしがみついているなら、たとえ天地が崩れ去るように見える状況の中にあっても、私たちはどこにも落ちていくことはありません。
 神さまは、永遠の御国へとつながる道の上に、私たちをしっかりと立たせ続けてくださるのです。

 そして、この約束は、終りの時だけの話ではありません。
 イエス様の十字架の死の意味を知り、復活されたイエス様を信じ、受け入れるなら、その瞬間に、私たちはすでに永遠の御国へとつながる道へと移されているのです。

 すでに信じている私たちは、今この時も、そして終りの時においてさえ、変わることなく御国へとつながる道の上に置かれています。
 その道を確実に歩むように守られ、神さまご自身が責任をもって、御国に至るまで案内してくださるのです。
 なんという恵みでしょうか。なんという約束でしょうか。なんという確かな保証でしょうか。

 だからこそ、イエス様の弟子となったパウロは、あのように確信をもって語ることができたのです。
 ピリピ人への手紙1章21節です。

1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

 この御言葉が示しているように、キリストの福音は、その場しのぎの慰めではありません。
 それは、永遠にキリストと結びついた人生が与えられる、という確かな約束です。

 この世がどのような状態になろうとも、また死が目前に迫るような時が来たとしても、すべてが信じる者の益となる。
 それが、神さまが与えてくださっている揺るがない約束なのです。

 この事実は、状況によって変わることはなく、決して失われることもありません。
 だからこそ、信仰者は、生きる時にも、そして死に向かう時にさえ、キリストにあって確かな希望をもって歩むことができるのです。

3、目をさましていなさい
 マルコによる福音書13章32-37節を読みます。

13:32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
13:33 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
13:35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
13:36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
13:37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。

 ここでは、旅に出た主人のたとえを通して、《目をさましていなさい》という言葉が、三度も繰り返して語られています。
 それほどまでに、イエス様が大切な勧めとして語っておられる言葉なのです。

 たとえ話の中で、主人は僕たち一人一人に仕事を割り当て、それぞれに責任と権限を与えています。
 その様子から、主人がいつ帰ってきてもよいように、常に気を張り詰め、緊張し続けなければならない、と感じてしまうかもしれません。
 しかし、イエス様が語ろうとしているのは、そのような生き方ではありません。実際、そのようなことは誰にもできないでしょう。

 そうではなく、自分に任された役割を、イエス様の助けをいただきながら、誠実に、忠実に、日々果たしていくこと、それでよいのだと語られているのです。

 では、私たちに任されている役割とは何でしょうか。
 それは、全世界にイエス・キリストの福音が伝えられるように、私たち一人一人が証し人として生きることです。

 その証しとは、神さまを愛し、礼拝をささげ、教会の体の一部として兄弟姉妹を愛し、また隣り人を愛する歩みの中で、人々がそこに神さまやイエス様を見ることができるようにすることです。

 何か特別なことをしなさい、というのではありません。
 日々の信仰生活を、神さまのお言葉に従って歩もうと求め続けること、その積み重ねが、人々への確かな証しとなっていくのです。

 聖書に書かれている神さま、イエス様のお言葉には力があります。
 お言葉の約束は、たとえ天地が崩れるようなことがあっても、決して無効になることはありません。
 その永遠の約束を信じきって、お言葉を握りしめ、お言葉に沿って歩むとき、私たちは神さまから与えられた証し人としての役割を果たしていくことになります。

 “目をさましている”とは、神さまを意識し、神さまの前に立って生きている霊的な状態のことです。
 祈りを通して、神さまと霊においてつながっている、あるいは、すぐにつながることのできる状態にある、ということです。

 この「目」とは、肉の目ではなく、霊の目です。
 聖書が語る《目をさましていなさい》とは、霊の目を覚まし、祈りつつ歩みなさい、という勧めなのです。

 霊の目が開かれているとき、肉の目は、この世のものばかりを追いかけることはありません。
 しかし、この世のものや出来事、自分の思いを神さまよりも優先してしまうなら、霊の目は次第に閉じていってしまいます。

 イエス様がこのたとえで語っておられるのは、霊の目を開いたまま、霊によって日々の課題に向き合う歩みを続けていなさい、ということです。
 それこそが、終りの日に向けた、最も大切な霊的備えなのです。

 だからこそ、終りの時そのものは教えられていません。
 もしそれが知らされたなら、私たちは日々の信仰の歩み、すなわち霊的な備えよりも、終りに備える肉的な準備に走ってしまうからです。
 いつ、どこで、何が起こるのか、どこへ逃げればよいのかという情報に振り回され、必要だと思うものを買い集め、霊の備えが妨げられてしまうことを、神さまはよくご存じなのです。

 ではなぜ、終りの時そのものは教えられていないのに、前兆や前触れは教えられているのでしょうか。
 それは、あまりにも大きな出来事に肉の目が釘付けにされ、霊の目を閉じてしまわないようにするためです。
 私たちの弱さをよく知っておられる神さまが、霊の目を開き続けるために、前触れについては教えてくださっているのです。

 そして、今信じている私たちは、終りの前触れが始まる前、あるいはその途中で、天に引き上げられると語られています。それが携挙です。
 それによって、いまだかつて人類が経験したことのない、この世の大きな患難から守られるのです。

 だからこそ、携挙がいつ起こるのかは分かりません。分からないからこそ、よりいっそう備えが必要になります。ただし、それは肉による備えではなく、霊による備えです。
 霊の目を覚まし、日々の信仰の歩みを誠実に続けていくこと、それが“目をさましている”ということなのです。

 それは、気を抜かないように、いつも緊張し続けていなさい、ということではありません。
 そうではなく、霊の目を開いたままでいなさい、という勧めです。

 特別なことを何かしなければならない、というのではありません。
 日々の信仰の歩みを、与えられているままに、淡々と、誠実に続けていくことです。

 前回見た《だから、気をつけていなさい》(マルコ13章23節)という言葉も、緊張し続けなさいという意味ではなく、霊の目を開いていなさい、という呼びかけでした。

 気を抜かないように力を入れ続けるのではなく、滅びることのない神さまのお言葉に日々親しみ、そのお言葉に信頼し、そのお言葉により頼んで歩むことです。
 それこそが、霊の目を覚ましているということなのです。

 そしてそこには、変わることのない、決して消えることのない永遠の希望があります。
 お言葉は決して倒れることがなく、私たちを永遠に支え続ける杖なのです。

※霊の目:神さまの方に心を向け、聖書を通して示される神さまの御心とご計画を受けとめ、日々の生活の中でそれに従って歩もうとする信仰の姿勢のこと。

※もし、神さまの御心やご計画がよく分からないと感じるときには、遠慮せず、牧師や伝道師に尋ねてみてください。
 また、まだクリスチャンでない方も、どうか気後れせずに教会の玄関をノックし、知りたいこと、分からないことを率直に聞いてみてください。
 神さまは、求める者に、ご自身を知る道を必ず備えてくださるお方です。

2026年9月6日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
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そんな思いが心のどこかにある方へ。
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オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、準備をしております。 

【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。

※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
 ニックネームでの参加もOKです。