ショートメッセージ【アブラハム⑤】

創世記20-21章
1、過ちは繰り返すもの

 アブラハムは「信仰の父」「信仰の人」と評される人物です。ですから、どのような人物か、どのような実績を残してきたのか、期待を膨らませて、創世記を読み進めます。しかし、読まれた方はお分かりだと思いますが、意外と私たちの想像する清廉潔白な人物ではない印象をお持ちではないでしょうか。しかし、アブラハムは「信仰の父」「信仰の人」と評される人物です。では、なぜそう呼ばれるのか。丁寧に読み調べていくと、「信仰」の本質を知ることができるはずです。

 アブラハムは12章でエジプトのパロに対して、自分たち夫婦のいのちが助かるため、さらに財産目当てに自分の妻サライ(後のサラ)を献上しようとしました。このことは、「夫婦は一体である」という聖書の教えに反しています。

2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

 そして、あなたの子孫にカナンの地を与えるという約束にも反することになります。このことがあって、アブラハムは約束の地であるカナンに帰っていきます。

 この12章のエジプトのパロと妻サライ(後のサラ)の件を思い出しなから、本日学ぶ20章に入りたいと思います。

20:1 アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。
20章1節を読みますと、場所はネゲブ地方というイスラエルの南の方の砂漠の話です。

次に20章11-13節を見てみましょう。
20:11 アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。
20:12 また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。
20:13 神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。

 今また、アブラハムは、その地方の王様であるアビメレクに対してサラを献上しようとします。つまり、エジプトでの過ちを再現していると言ってよいでしょう、同じ過ちを犯そうとしました。そして、前と同じように神さまが介入されてサラのピンチを救うことになります。

 どちらも聖書は良いとも悪いとも書いていません。しかし、何度もあなたたちの間から子孫が与えられるという神さまの約束を軽んじる行為に見えます。エジプトでのことも、ここネゲブでのこともサラや奴隷たちの命がかかっているのです。アブラハムは、この軽率な行動を悪いとは思っていないようです。

 はじめの人類であるアダムとエバが食べてはならないと言われた木から食べたときによく似ているのかもしれません。どちらにも共通していることは、もし、神さまの言葉に従わないで自分の常識を基準に良いと思うことを行うとき、どのような結果になるかということを学習していたらアブラハムはこのような行動に出たでしょうか。

 神さまは、アダムに対して「食べたら、必ず死ぬ」と言われた実を食べたことに対して大きな罰を与えようとは思っておられなかったように思います。
 神さまの指摘と罰は、ヘビの誘惑があったにせよ、神さまの命令・忠告を守らず、自分自身の意志で、善悪を知る木を取って食べたにもかかわらず、それを認めず、誘惑した者(誘った者)の責任にすることにより罰を与えたように見えます。

 特に、若い方々には、ご自身の「好奇心」と外部からの「誘惑」にご注意いただきたいと思います。好奇心が強い時にこそ、ネットなどの情報や人からの誘いを受けて、負の大きな代償を支払うことになります。

 アブラハムは、誰の責任にもしていません。そのことによって、神さまの言葉に少々反しても罰っせられなかったのではないでしょうか。そして、気づいていない。無自覚であったということも考慮されたのかもしれません。
 現代は、聖書が与えられている時代ですので、転ばぬ先の杖として事前に調べることが容易です。アブラハムの場合は、聖書が与えられていない時代の中で、さらに、神さまの御言葉に従っていないという無自覚であったことが、ゆるされた要因だったかもしれません。

 しかし、このことは、現代の私たちに「気をつけて、よく聖書を読んで、神さまの言葉に従って行動するように」と教えてくれています。アブラハムのように、いのちの危険が迫った際には、正直なところ、神さまのお言葉どころではないというのが多くの信仰者の本音かもしれません。
 アブラハムは、なかなか悟れませんでしたが、私たちはこのことから、聡くありたいものです。もし、故意に神さまの言葉に従っていないとしたら、早くやめるべきという警告をここで教えてくれていると思います。

2、サラの懐妊
 21章で、サラは待ちに待って男の子を生みました。イサク(笑う)とはサラ自身が年を取っていた自分は神さまの言うとおりに妊娠はしないという不信仰から「笑った」ことからつけられた名前です。悪い名前のように聞こえますが、これは、神さまがそのように付けるようにおっしゃった名前です。サラ自身のためにもこのイサクという名前を付けたことは信仰者としての十字架であり、神のあわれみを覚えるものとなったことでしょう。
 余談ですが、サラという人を見るとき、決して信仰の強い人とは思えない行動や発言が多い人です。しかし、アブラハムという主人の生き方や御言葉が、自分自身に実際に適用されていく中で成長していった人物です。箴言27:17には《鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。》という言葉があります。人はとがれる価値のある信仰者や友だちが必要であることを教えられます。

 このネット教会やリアルな教会においても同様です。自分の身を研いでくれる場所があることは人生の大きな恵みです。そのような関係を築いていける友になっていければ私たちは幸いですね。励ましや慰めとともに、主の御言葉によって研ぎあうことのできる関係を築けるならば、それは本当の友と呼べる大きな居場所になりえるに違いありません。

3、イシュマエルの旅立ち
 一方、アブラハムとサラが自ら招いたわざわいもありました。サラの女奴隷に産ませたイシュマエルが、イサクをからかっていることから、追放するように、サラがアブラハムに訴えました。このことでアブラハムを非常に苦しみました。どちらも自分の子どもだからです。
 アブラハムは、悩みに悩んだようですが、神さまが、サラの言うことを受け入れても、イシュマエルを守ると約束されたので追放することになりました。
 後先考えず思慮が浅く、神さまの御言葉以上にサラの意見を取り入れたことを、この時ばかりは後悔したことでしょう。このような中で、アブラハムは神さまの言葉を信じて、イシュマエルを送り出しました。そしてイシュマエルは死にかけることになっても守られ、新たな民族を作っていくことになります。この民族が後にイスラエルの大きな障壁になっていくことになるのですが。人生とは本当に複雑であることを教えられますね。
 
 繰り返しになりますが、私たちはこのことから、御言葉に聡くありたいものです。そして、故意に神の言葉に従っていないとしたら、早くやめるべきという警告をここで教えてくれていると思います。
 特に、人生の大きな起点の時には、私心なのか。また、友人に相談し、あまり深く考えずに決めたことなのか。それともしっかり祈って、聖書の御言葉やアブラハムのように神に従い続ける人や有識者との関わりで決めたことなのかを見極めるべきでしょう。

 人生は自由です。ですから、アブラハムを通して自由の自らの意思で、神さまの御言葉に聞き従う人は幸いであることを教えられます。アブラハムの人生の岐路で、選択したことは、神さまの前では、不誠実であり、また、誠実でありました。
 アブラハムの人生は、今の信仰者の生き方の実情を教えているのではないでしょうか。神さまを信じて暮らしている人は、アブラハムのように失敗が失敗で終われない人生をくださるようです。

2022年3月13日(日)
メッセンジャー:香川盛治師