素直に読む【ヨハネの黙示録_2】

ヨハネの黙示録1章1-8節②(1章5b-8節)
「イエス・キリストは来られる②」

〈ふりかえり〉
 前回、「イエス・キリストは来られる①」として、1章1-8節(主に1章1-5a節)を見て来ました。
 前回お話しした通り、この黙示録は、当時のキリスト者(私たち)への励ましの手紙であって、そのために神さまは、これから起こることについて当時の聖徒(私たちにも)に特別に見せてくださっているということでした。

 しかし、これから起こることで、神さまが、ぼかしておられる細部にとらわれて謎解きになって終わらないように、木を見て森をみないということがないようにということでもありました。
 また、イエス様がトマスに、《「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。》(ヨハネ20:29)と言われた通りに、詳細に、全てをみなくても、大枠を見失わずに全体を確実に捉えて信じて読み進めるよう、大きく森を見ていくためにも、流れよく進んでいくことを前提に準備をはじめましたが、どうしても、1章は8節までと9節以降になりました。
 また、1章1-8節も準備していく中で、2回に分けざるを得なくなりました。
 ということで、今日は、1章1-8節の後半部分を中心に、1章5節途中から見ていきます。

 前回の前半部で、ヨハネが命をかけて証しした内容が、手紙になっていること。また、当時この手紙を、礼拝で朗読されるのを聞いていた信徒たちは迫害があったことをお伝えしました。

 その迫害によって命の危険があるのに、礼拝をお献げする信徒たちは、使徒ヨハネの手紙が命がけのメッセージであることをすぐに理解し、多いに励ましを受けながら聴いていたであろうということ。その中で、

1、イエス様は、三位一体の神さまであり、御父、ご聖霊、子なるイエス様それぞれが、働いて、導いておられ、私たちは、そんな神さまイエス様に守られているということ。

2、イエス様が、死からよみがえられて、人を閉じ込めてしまう死に勝利をおさめ、死が新しい命の誕生をやむなくさせられて、死が死であることの人への恐怖、威圧、毒気を完全に抜かれてしまったこと。もはや、イエス様とイエス様を信じる者に対しては、死は、なんの意味を持たない、私たちは、死への完全な勝利者とされているということ。

3、イエス様が、地上に再臨され、千年王国における王となられる。そして、私たちが仕えているのはこの王様、イエス・キリストなのだ、人がいかに支配しようとしても恐れる必要はないということ。
 それを成し遂げられた、また、成し遂げられる。そのイエス様が、来られる、今にも来ようとされているということが伝えられているということをお話ししました。

〈本文〉
 本日は、「イエス・キリストは来られる②」として、前回の続き、主に、ヨハネの黙示録1章5節(後半部分)から見てまいります。

1:5b わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、

 そのイエス・キリストは私たちを愛し続けている(現在形)。かつてだけではない、今も私たち1人1人を愛し続けてくださっている。
 そして、その血によって私たちを罪から解放してくださった、解き放ってくださった(過去形、1回でその贖いで、完全に終わらせてくださった)ということ。これは、ただ、私たちの罪が赦されただけではなく、罪の支配から自由にされたということを言っています。

1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。

 ここの原文を素直に訳すと、「イエス様は、私たちを王国としてくださり、イエス様の父である神の祭司としてくださった。そのイエス様に、世々限りなく、栄光と主権がありますように。アァメン。」となります。

 ですから原文では、《御国の民》とは書かれていなくて、“王国”となります。
 前の文脈からすると、イエス様は、ただ1度の贖いで、私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを罪から自由にしてくださった。それは、まさに、罪赦された私たち1人1人が、罪のない王国なのだ。だからこそ、罪ないものとして、罪から解放され自由になっているのだから、父なる神さまの祭司とされている。祭司として用いてくださろうとしている。だから、神さまにあって、迫害の中でも、あなたの信じたところをまっすぐに歩みなさい。また、祭司は、罪ある人のためにとりなす存在のだから、迫害を恐れず、罪人の救いに、なお、視点をおきなさい。

 当時、朗読を聞いていた信仰者には、このように聞こえていたのではないかと思うのです。そんなあなたをイエス様は、愛し続けてくださっていますよと。そのイエス様をほめたたえましょうと。

1:7 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。

 この節は、キリストの地上再臨の預言です(終末における出来事の全体図の患難時代のあと、千年王国の前、イエス様の地上再臨の箇所です)。この箇所を読んで、旧約のダニエル書、ゼカリヤ書の預言を思い出した方もおられたのではないでしょうか。
 《雲に乗って》という箇所ですが、ダニエル書7章13節に、

7:13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。

 とあります。新約聖書では、マタイによる福音書24章30節・26章64節、マルコによる福音書13章26節・14章62節、ルカによる福音書21章27節、ヨハネの黙示録14章14節の6か所。「雲に乗って」という表現で訳されています。

 私は、ついつい、孫悟空のイメージになってしまっているのですが、原文をみると、雲とともに(with)、雲の中に(in)という訳が適当かと思われます。
 新改訳2017も雲とともにと訳しています。
 ですから、栄光の雲に包まれてやって来られると言ったところでしょうか。

 ヨハネの黙示録1章7節節の《彼を刺しとおした》とは、明らかに、十字架のイエス様のわき腹を槍で突き刺したことを意味しています。《しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。》(ヨハネの福音書19章34節)。《やりでそのわきを突きさす》という表現は、ヨハネの福音書にあるだけです。とすると、このヨハネの福音書とヨハネの黙示録との符合は、記者が同一人物であるというと説の有力な支えとなります(黙示録の記者についてはヨハネではないという説もあります)。

 イエス様は、マタイによる福音書24章30節で、《そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。》と言われました。これは、この黙示録1章7節の個所と完全に合致しています。

 ヨハネの黙示録1章7節《胸を打って嘆く》については、ゼカリヤ書12章からの引用でしょう。
 ゼカリヤ書12章10-12節を見てみましょう。

12:10 わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。
12:11 その日には、エルサレムの嘆きは、メギドの平野にあったハダデ・リンモンのための嘆きのように大きい。
12:12 国じゅう、氏族おのおの別れて嘆く。すなわちダビデの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。ナタンの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。

 ヨハネの黙示録1章7節の《地上の諸族(諸民族)とは、神に逆らう者たちのことです。つまり、キリストの地上再臨の目的の一つは、神に逆らう者たちをさばくために来られるということです。
 彼(イエス様)のゆえに《胸を打って嘆く》のは、人々が自分の犯した罪を悔いて嘆くことではなく、彼らの罪に対する神さまの報いの恐ろしさを知ったからです。
 テサロニケ人への第2の手紙1章8-9節に、

1:8 その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、
1:9 そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。

 とあります。

 ヨハネの黙示録1章8節を読みます。

1:8 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。

 ヨハネの黙示録1章8節は、文脈から明らかにイエス・キリストを指していると考えて良いでしょう。また、聞く者によっては、三位一体の神さまを思い描いていたとしても、それは、間違いではないでしょう。しかしそこには、やはり今来ようとされているイエス様が、おられるのです。

 そんなイエス様が、アルパでありオメガだと言っておられます。
 アルパ(アルファ)はギリシャ語のアルファベットの最初の文字、オメガは最後です。
 英語の「A」と「Z」、日本語の「あ」と「ん」です。つまり最初であり最後であるということです。

〈まとめ〉
 先週から2週にわたって「イエス・キリストは来られる」という題で、1章1節から8節をみてきました。

 先週のところでは、イエス様に関して、特に1章5節の《死人の中から最初に生れた者》に注目しました。死は、容赦なく、人を取り込んでいきます。しかし、イエス様は、閉じ込められてしまうはずの死の扉を押し破って出てこられた。死は、死からの新しい命の誕生を防ぐことができなかった。

 イエス様によって、死が死であることの人への恐怖、威圧、毒気を完全に抜かれてしまった。しかも、その前例をつくられたイエス様は、信仰者の初穂となって、イエス様にあるものすべてが同じようになることを示された。もはや、イエス様を信じる者に対して死は、なんの意味をも持たない、死への完全な勝利者とされている。それが、《死人の中から最初に生れた者》ということだとお話ししました。

 そして本日、イエス様は、ただ1度の贖いで、私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを罪から自由にしてくださった。それは、まさに、罪赦された私たち1人1人が、罪のない王国としてくださったのだ。だからこそ、罪ないものとして、罪から解放され自由になっているのだからこそ、父なる神さまの祭司とされている。祭司として用いてくださろうとしている。
 だから、神さまにあって、迫害の中でも、あなたの信じたところをまっすぐに歩みなさい。また、祭司は、罪ある人のためにとりなす存在のだから、迫害を恐れず、罪人の救いに尚、視点をおきなさいと言われておられます。

 いま迫害の中にある、このまま迫害が続き、いつ捕らえられて、殺されるかしれない、そんな命の保証がない中で、今礼拝をささげている。しかし、そんな信仰者にイエス様は語ってくださっている。

 わたしは、死に勝利した。私が押し開けた死の扉をあなたがたも私にならって、同じようにこじ開け、必ずよみがえる、死は毒針を抜かれてしまった。もう何の意味ももたない。だから恐れるな。

 この世の誰が勝ち誇ろうとも、ドミティアヌス帝の支配がどれだけ強大であっても、あなた方がつかえるのは、これから王となるわたしイエスなのだ、ドミティアヌス帝の支配がどれだけ強大であっても恐れるな、わたしがあなたの王だから。

 そして、わたしは、わたしの血で、あなたがたの罪を赦し、それだけではなく、罪の支配から完全に開放した。あなた方は、まったく罪のない王国なのだ、そして神に仕える祭司なのだ。だから、神の祭司として歩みなさい。この世の事を恐れずに、福音を語り、罪をとりなしなさい。

 そんなイエス様の時が近づいている。
 イエス様が、栄光の雲をともなってこられる(1章7節)。
 イエス様が、やがて来られる(1章8節)。今来つつある。
 また、父なる神さまも、やがて来られる(1章4節)。
 今来つつある。最後の審判(大きな白い御座のさばき、黙示録20章11-15節)のために。

 そう、黙示録1章1-8節で、信仰者に語られているのは、イエス・キリストが来られる。その時が近づいている。イエス・キリストが、今もう来つつあるのだということ。
 それは、ただしく裁かれるため、信仰者に報いを与えるために。

 そのイエス様は、アルパでありオメガであるお方。
 創世記1章31節《神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。》

コロサイ人への手紙1章16節を読みます。

1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

 《万物は御子によって造られ》アルパであるイエス様は、はじめに、人を置かれた。それははなはだ良かった。良いものとして始められました。
 しかし、人は、そんなイエス様に、勝手に背を向けて歩んだ。そんな人間をイエス様は、ご自身命を捧げて贖い、罪から解放し、神の祭司としてくださる。

 わたしたちを愛するがゆえに良いものとして置いてくださり、そのご計画を始められたイエス様は、オメガとして、最後まで、全責任をもって、私たちを導き、なにがあろうとも、私たちのオメガとしてご自身のご計画をかならず達成される。私たちを愛するがゆえに良いものとして、その王国に必ず置いてくださる。

 イエス様が、そうされないはずはないのだから。そのイエス様が、今こられつつあるのだから、だから、希望を持ちなさい。元気を出しなさい。慰めを受けなさい。
 わたしイエスは、あなたを愛するがゆえに良いものとして置いて、はじめたのだから、あなたを愛するがゆえに良いものとして必ず置くのだ。それがこのことば、《「わたしはアルパであり、オメガである」。》

2023年7月28日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_2】
タイトル:「イエス・キリストは来られる②」
牧師:香川尚徳