素直に読む【ヨハネの黙示録_21】
ヨハネの黙示録14章1-20節
「信仰者の忍耐」
〈はじめに〉
ヨハネの黙示録13 章では、2匹の獣、つまり、政治、宗教の両面を支配する恐ろしい指導者たちが立ち、すべての人に獣の刻印を押すように強要します。そして、この刻印がなければ生活できない恐ろしい世界が描かれていました。
そのような状況であれば、どのような信仰者であっても追い詰められてしまうでしょう。しかし、信仰者は、そのまま放置されないのだ。と言われているのです。
〈本文〉
ヨハネの黙示録14章1-5節を読みます。
14:1 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
14:2 またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
14:3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
14:4 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
14:5 彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。
神の都シオン(エルサレム)の山に、小羊であるキリストが勝利者として立たれ、小羊に従った信仰者14万4千人がその勝利にあずかっていることを、この幻によって示されているのです。
この14万4千人という数字は、すでに7 章でユダヤ人に限らず、すべての神の民、信仰者を象徴していることを見ました。
この地上で、過酷な試練を通しても、なお、信仰に立ち続けたすべての信仰者が、小羊である勝利者キリストのもとで、その守りの中いること、また、一人ひとりに、獣の名に対抗できる、小羊の名と小羊の父の名とが額に書かれています。
この信仰者たちは、神さまの所有であり、神さまの守りの中にあることを明らかにしています。
14章4節の《女にふれたことのない者》というのは比喩であって、霊的(神さまへ信仰を持ち続けた)に姦淫を犯さなかった信仰者ということでしょう。つまり、迫害と死を覚悟する状況下で、獣の刻印を押さず、獣の像を拝まなかった人たち。という意味です。
14章5節の《口には偽りはなく》とは、嘘をついたことがないという意味ではありません。サタンに心を奪われて獣を拝むことをしないで、イエス様に従い通した。その信仰こそ偽りない信仰だと言われています。
《傷のない》というのは、もちろん、イエス様を信じて罪赦され、罪がない状態を示しています。
ヨハネの黙示録14章6-12節を読みます。
14:6 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
14:7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
14:8 また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。
14:9 ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、
14:10 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
14章6-7節では、第1の御使いが、地上にいる者たちへ、救われる最後のチャンスとしての神さまからの呼びかけ、福音を伝えています。この機会を逃すと、もう2度とチャンスがないという、二者択一の明確な最終選択を迫っています。
8節では、さらに第2の御使いが来て、バビロンが倒れたと宣言したのです。このバビロンはバビロニア帝国を指すのではなく、比喩であって、神さまに逆らう世の勢力ということです。ヨハネや、当時の信仰者には、ローマ帝国のような国と理解できたでしょう。
私たちは、サタンを背後に、立てられた政治的、宗教的指導者に導かれた世界、また、そのような大国と理解してよいでしょう。
そして9-11節では、第3の御使いが現れ、獣の刻印を押された者たちが、神さまの怒りが詰まったぶどう酒を飲ませられ、神さまの裁きである永遠の苦しみの中に入っていく様子が描かれています。
12 節の《聖徒の忍耐》とは、単なる我慢ではありません。どのようなことが起ころうとも、神さまの御心とお働きを信頼し、自分の立つべき場に踏みとどまるという意味です。堅く信じ続ける信仰者の姿を現しています。
ヨハネの黙示録14章13-20節を読みます。
14:13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
14:14 また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。
14:15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。
14:16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。
14:17 また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。
14:18 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。
14:19 そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
14:20 そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
14章13節の《死ぬ死人はさいわいである》とは、この患難を通って、本物の練られた信仰を得た者は、たとえ死ぬことになったとしても、この世の労苦から解かれ、主のもとのにあって真の休みを得ます。その忍耐とまた信仰に主は必ず報いてくださいます。そのことは、永遠の御国に入っても生かされていきますよということです。
ここでも3 人の御使いが、刈り取りの業に仕える者として登場します。
14節、《その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、》は、イエス様を指しています。そして、《手には鋭いかまを持っていた。》は、収穫の時だからです。
15節、第1の御使いは、神の時(収穫の時)を知らせる役割で、鎌を持っておられるイエス様に、「時が来たので、鎌を地に投げ入れて刈り取ってください」と知らせています。
17節、天の聖所から出てきた御使いも鎌を手に持っています。この御使いへの伝令者として、火を支配する権威を持っている次の御使いが祭壇から出てきます。そして、鎌を持つ御使いに刈り取りの合図をします。
この2重の刈り取りは何を意味しているのでしょうか。
マタイによる福音書13章29-30を読みます。
13:29 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
13:30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
第一のイエス様の鎌は、信仰者である麦を刈りとります。また、次の御使いによる鎌は、その一部のぶどうの実に限定して語っているところから、神さまに逆らい続けた者、神の民を迫害し続けていた者たち、つまり毒麦を刈り取ることを示していると考えらえます。
神さまの怒りが、どれほど激しいものであったか、それは、血のようにぶどう汁が流れて1600丁の広さに亘って広がり、その深さは、馬が泳げるほど、馬の “くつわ”の高さにまでなったと言います。
1600丁は、16平方キロメートル、東京ドーム約34個分となりますが、想像できるでしょうか。そして高さは、馬の頭ほど、ということで、全世界でおこる悲惨な光景の規模、神さまの裁きの激しさが、考えられないほど、凄まじいことを示しています。
〈まとめ〉
まず、ヨハネの黙示録14章18節の《祭壇》に注目しましょう。
黙示録の6章で、血の報復を求める殉教者たちの声が、祭壇の下から聞こえてきたと言われていました。ここで言われているのは、自分たちの報復ではなくて、神さまの報復だとお話ししました。「これまでの不完全な裁きだけでは十分ではありません。あなたの義を早く全うしてください」との求めの声だと理解しました。
その殉教者の声が聞こえてくる《祭壇》にかかわる御使いが、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で《地のぶどうのふさを刈り集めなさい。》とあります。
このことは、神さまが、殉教者への慰めとして報復を見せようとされているのでしょうか。
そうではないと思います。
神さまは、これまでも、患難期に入ってさえも、神さまに立ち返る道があることを示し続けて来られました。
この最後のぎりぎりの時に、神さまを恐れて、神さまにひれ伏すのか、あくまでサタンのこの世の側に留まるのか。選ぶ道を置かれているのです。そして、どうしてもサタンの側に留まるのであれば、神の裁きがありますよ。と教えています。
この幻を見ているヨハネ、また、迫害の中で、この手紙を見聞きする信仰者、そして、今、明白な迫害はなくとも、信仰が試されている信仰者が「どうして神さまはすぐに報復されないのか、もっと守ってくださらないのか」という思いを抱かないようにするためです。
どこまでも愛で勝利されようとする、このイエス様の御心がわかるなら、「あの人、この人に仕返ししてください」という、肉の思いに囚われていてはダメだと教えられているのです。
どんな状況になっても、神さまの側に行かない者には、神さまの怒りの裁きがくだります。
「わたしの心(想い)がわかるなら、どうか、それまで待っていて欲しい。今回見たように、必ず、神さまの激しい裁きで苦しめられるのだから。どんなに理不尽に思えても、最後には、神さまの裁きがくだされ、いま、信仰者を攻撃するサタンや反キリストに終わりがあるのだから、それを今あなたがたは見ているのだから、自分で裁きを行わず、神さまの怒りに任せなさい」とイエス様は言わんとされています。
もう一つの注目点は、13節の《『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』》と言う言葉です。
これは先に見た通り、この患難を通って、本物の練られた信仰を得た者の人生は、たとえ死ぬことになったとしても、幸いなのだと言われています。この終わりの時の患難にかかわらず、ヨハネの時も、また今も、苦難を通してその信仰が練られた信仰者は幸いであるとの教えです。
そして、《そのわざは彼らについていく》のです。つまり、そのような信仰者の行いは、この世においても、また、永遠の御国でも大きな報いがあるのです。
私たちは今回、小羊の勝利と、世の敗北の時が来ることの明らかな幻を見ました。“この幻を力としなさい”と、励ましをいただいています。
しかし、信仰が試される時には、忍耐が伴います。できれば、私たちはそれを避けたいのですが。どうしたらよいでしょうか。
ヤコブの手紙1章3節を読みます。
1:3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
神さまは、私たちの信仰を試しながら、信仰者の忍耐を育てて行ってくださっている。と言います。したがって、神さまは、私たちが、どんなことがあっても忍耐できるように守りと導きを必ず与えてくださるのです。神さまのなさることに何一つ無駄がありません。
ですので、「神さまは、何で守ってくださらないのか」、「悪を裁かれないのか」とつぶやくのではなく、神さまが与えてくださる忍耐で信仰にとどまり、結果としての練られた品性をいただきましょう。変わらない希望を持ち続けましょう。
この報いは、決して消えることなく、永遠に私たちとともにあることを神さまは約束してくださっています。
2025年2月21日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_21】
タイトル:「信仰者の忍耐」
牧師:香川尚徳