アブラハムとパウロに見る“信仰”とは

創世記12章、22章
コリント人への第2の手紙12章7-10節
ピリピ人への手紙3章7-8節
ヨハネの第一の手紙4章7-8節、他
(旧約聖書「アブラハム」、 新約聖書「パウロ」)

1、“信仰”広辞苑では
2、聖書に見る信仰の3つの主な要素
 ① 信頼(信じる心)
 ② 志・目的意識(志向性)
 ③ 決意と行動(意志・実践)
3、アブラハムの信仰(創世記12章)
 ① 信頼(神さまへの信頼) 
 ② 志(神さまに従う生き方を選ぶ)
 ③ 決意と行動(信仰に基づく実践)
4、パウロの信仰(使徒行伝、パウロ書簡)
 ① 信頼(神さまの恵みへの全面的な信頼)
 ② 志(福音を伝える使命への志)
 ③ 決意と行動
5、アブラハムとパウロの共通項

1、“信仰”広辞苑では
 “信仰”を広辞苑で調べますと「信じたっとぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。」です。

 広辞苑の定義の解説しますと、
「信じたっとぶこと。」
 → 「信じて大切に思うこと」「心から尊敬して従うこと」という意味です。

「宗教活動の意識的側面をいい、」
 → 信仰は、宗教に関わる行動の中でも、「自分の意思や心で信じる」という、心の動き(意識)を指します。
 たとえば、お祈りをするとき「本当に神さまがおられる」と信じていること、それが信仰です。

「儀礼と相俟(あいま)って宗教の体系を構成し、」
 → 宗教では、信じる心(信仰)と、具体的な儀式や行事(例:礼拝、祭りなど)が一緒になって、宗教全体の仕組みができています。

「集団性および共通性を有する」
 → 信仰は一人ひとりの心の中のものですが、同じ宗教を信じている人たちの間では、「共通した信仰の内容」があり、「集団としてのつながり」も生まれます。
(例:教会やお寺などの共同体)

広辞苑より“信仰”とは
 簡単にまとめますと、
 「信仰」とは、あるもの(神や教えなど)を心から信じて大切にし、それに基づいて生きようとする心のこと。個人の心の動きでありながら、儀式や集団とつながって、宗教全体を形づくっている。ということになります。

2、聖書に見る信仰の3つの主な要素
① 信頼(信じる心)
 ・目に見えない神や真理に対する信頼。
 ・「分からなくても信じる」「見えないけれど委ねる」という姿勢。
 ・例:「主に信頼して歩む」。
  →これは、「意思」や「意志」だけでは補いきれない、超理性的な依存と信頼です。

② 志・目的意識(志向性)
 ・「この方に従って生きたい」「真理に向かって生きたい」という方向性や志。
 ・単なる感情ではなく、「神を求める」「永遠の価値を追う」という人生の向きがある。

③ 決意と行動(意志・実践)
 ・信じるだけでなく、「従う」「生き方を変える」という実践的な決意。
 ・苦しみや困難があっても信仰を保つという意志的な側面。

〔まとめ〕
 信仰=神への信頼 + 真理を求める志 + 従おうとする決意
 この3つがバランスよく含まれているのが、「信仰」の本質的な姿と言えます。

 では、旧約聖書を代表してアブラハム、新約聖書を代表してパウロの「信仰」の中をごく簡単に見てみましょう。まさにこれらの要素が見事に表れています。

3、アブラハムの信仰(創世記12章)
① 信頼(神さまへの信頼)
 創世記12章1節を読みます。

12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。

 アブラハムは、行き先も知らされていないのに、神さまの言葉だけを信じて出発しました。
 《「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。》
  → これは、自分の理解や安全を手放して神に全面的に信頼する姿勢です。

② 志(神さまに従う生き方を選ぶ)
 創世記12章2節を読みます。

12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

 アブラハムは、《祝福の基》となる使命を受け取り、それを人生の目的・志としました。
 神さまが約束された「子孫」と「土地」を信じて、異郷の地でも祭壇を築き、礼拝し続けました。

③ 決意と行動(信仰に基づく実践)
 アブラハムは人生のあらゆる場面で「信仰による決断」をしています。
 特に有名なのが、イサクをささげる場面、創世記22章1-14節です。

 内容は、神さまはアブラハムを試み、愛するひとり子イサクを全焼のささげ物(燔祭)として捧げるよう命じられました。アブラハムは即座に従い、イサクを連れてモリヤの山に向かいました。その道中、イサクは、《「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。》(創世記22章7節)と尋ねますが、アブラハムは、《「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。》(創世記22章8節)と答えます。アブラハムがイサクを祭壇に載せ、刃物を手にしたその瞬間、神さまの使いがアブラハムを止めます。
 アブラハムの神さまへの恐れと従順さが明らかになったからです。最終的に神さまは雄羊を備え、それを代わりに燔祭としてささげます。アブラハムはその場所を《アドナイ・エレ》(「主の山に備えあり」)(創世記22章14節)と名づけました。

 息子を失うことへの恐れよりも、“神さまは命をよみがえらせることができる”という信仰に基づく決意をもって行動しました。

4、パウロの信仰(使徒行伝 パウロ書簡)
①信頼(神さまの恵みへの全面的な信頼)
 コリント人への第2の手紙12章7-9節を読みます。

12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

 9節《わたしの恵みはあなたに対して十分である。》ですが、
 《恵み》は、神さまから一方的に与えられる助け・愛・力・導きなどのすべてを含むものです。これは“問題がなくなること”ではなく、“問題の中でも神さまが共にいてくださること”を意味します。
 《十分である》は、これは“欠けがない、満ち足りている”という意味です。パウロの《とげ》が取り除かれなくても、“神さまの恵みだけで完全に支えられている”ということです。

 《わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。》とは、“人間の弱さの中にこそ、神さまの力が最もはっきりと現れる”という逆説的な真理です。つまり、《弱さ》は失敗や不信仰ではなく、“神さまの力を受け入れるための入り口”なのです。

 → 自分の義(考えや思い)ではなく、神さまの赦しと救いの約束にすべてを委ねる信頼が根底にあります。

②志(福音を伝える使命への志)
 ピリピ人への手紙3章7-8節を読みます。

3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

 この箇所を要約しますと“私は福音のためなら、すべてを捨ててもかまわない。”と言えます。
 パウロは、キリストに出会ってからの人生は、「キリストを知り、知らせる」ことがすべてでした。
 → 人生の目的を完全に福音に置いた生き方=志の具体化をしています。

③決意と行動(福音を伝える)
 コリント人への第2の手紙12章10節を読みます。

12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 罵られ、侮辱を受け、迫害され、命の危険を感じても、パウロは福音を語り続けました。
 手紙を書き、教会を励まし、投獄中でも祈りと証をやめなかった彼の姿は、強い意志と行動力の現れです。

 ここで、アブラハムとパウロの信仰の姿勢と態度を見てみましょう。

5、アブラハムとパウロの共通項
 アブラハムとパウロの共通項は、
①召し出し
・アブラハム:神さまがウルから召し出して「祝福の器」とされました(創世記12章1-2節)。
・パウロ:ダマスコ途上でキリストに出会い、「異邦人への使徒」として召されました(使徒9章)。
・共通点:神さまの一方的な選びによって呼び出され、「自分の道」ではなく「神の道」を歩むように導かれました。

②旅
・アブラハム:定住せず、「約束の地」を目指す信仰の旅を続けました(ヘブル人への手紙11章8–10節)。
・パウロ:宣教の旅(第一次〜第三次)と最終的にローマへの旅、移動を通して神さまのご計画を果たしました。
・共通点:人生全体が、神さまに導かれる「信仰の旅」であり、物理的な移動も霊的成長も常に神さまとの同行に基づいています。

③信仰による義
・アブラハム:《アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。》(創世記15章6節)
・パウロ:アブラハムの信仰を引用し、《「信仰による義人は生きる」》(ガラテヤ人への手紙3章11節)という福音の核心を展開しています(ローマ4章、ガラテヤ3章)。
《「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」》(ローマ人への手紙4章3節)
共通点:2人とも、神さまの恵みに信頼する信仰によって義とされた者として、福音の中核を体現しています。

④約束に生きた人
・アブラハム:子孫と土地、そしてすべての国民が祝福されるという神さまの約束に生きました(創世記12章、15章、17章)。
・パウロ:アブラハムの《約束による相続人》はキリストにある信仰者であると宣言(ガラテヤ人への手紙3章29節)。
《もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。》
・共通点:神さまの約束を信じ、それに基づいて歩んだ生涯。アブラハムは物理的な相続者、パウロは霊的な相続者の視点で語っています。

⑤新しいアイデンティティの付与
・アブラハム:アブは「父」、ラムはアッカド語の「愛する」。西方セム語の「高い」という意味アブラム(「父は愛する」「高められた父」)→ アブラハム(多くの国民の父)へ(創世記17章5節)。
・パウロ:サウロ(ユダヤ名)→ パウロ(ローマ名)へ(使徒行伝13章9節)(「改名」というより、宣教対象に応じた名称使用)
・共通点:神さまに出会い、召命に伴って新しい名/使命を受け取り、人生が根底から変えられました。

⑥全生涯を神さまにささげた人
・アブラハム:最後まで信仰に生き、イサクの献げにおいてその従順を極めました(創世記22章)。
・パウロ:最後までキリストの福音に仕え、《わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。》と証しました(テモテへの第2の手紙4章7節)。
共通点:人生をかけて神さまに従った、生涯の信仰者・献身者でした。

 彼らを通して見えてくる信仰とは、単なる「信じる気持ち」ではなく、“人生の方向(志)と生き方(行動)を変えていく力”を持つものだとわかります。
 そして、あらためて“信仰”という単語を問うと、理性・感情・意志という人間の全人格を用いて、神さまに応答する心のあり方だと分かります

 前にもお話しましたが、こうして見ますと、「信仰=盲目的に信じること」といった誤解が見えてきて払拭されます。

 現代の私たちの生活に当てはめてみますと
・理性・知性 → 神さまの言葉を「理解しようとする」、真理や教理を学び「納得する」姿勢
・感情 → 神さまの愛に「心が動かされる」、罪の悔い改めや感謝、喜びの感情
・意志 → 神さまに従おうとする「決断」、日々の生活で選びとる行動

 聖書も、これらがバランスよく働くことを求めています。
 申命記6章5節を読みます。

6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

 この《心》《精神》《力》は、まさに人間の知性・感情・意志すべてを含む聖書的表現です。
 ヨハネの第一の手紙4章7-8節に、

4:7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

 とあります。神さまを愛することは、“神さまと共に歩む、愛の道”と言えると思います。そして、“愛と共に歩む、神の道”と言えるでしょう。聖書に登場するアブラハムやパウロ、神さまと共に歩んだ人々は“愛”に生きたのです。そう聖書の神さまを“信仰”することは“愛”することなのです。

2025年6月22日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
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 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
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