ショートメッセージ【エノクの証し】

創世記5章-6章8節
 創世記4章では、罪が私たちの住む世界に及ぼしている影響の大きさ、そこでの信仰の大切さを見ました。私たちには、自分を正当化し、自分の思いのままに、自分さえよければと自分本位に神さまなしで歩むのか(聖書の罪人の状態)、神さまのおことばに従い、神さまのみ心を求め、神さま本位に神さまの思いをその歩むとするのか、どちらを選ぶかで、日頃の歩みもその結果も大きく違ってくるということを見ました。
 今日の箇所では、まずアダムの系図を見ます。

1、神の子の系図/祝福と死
創世記5:1-3
5:1 アダムの系図は次のとおりである。神が人を創造された時、神をかたどって造り、
5:2 彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。
5:3 アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。

 5章1節をみると《神をかたどって》とあり、3節も《自分にかたどり》と子供のセツのことを言っています。創世記1章25-26節で言われていた「神のかたち」が受け継がれていることがあらためて、書かれています。では「神のかたち」とは何でしょうか。

 一般に人間の精神活動に含まれている3つの要素に「理・知性」「感情」「意志」があると言われています。加えて本能(肉体的)や良心があります。そして、私たちは、人格をもって他者と会話します。そして、私たちは言葉で祈ります。他の動物たちは祈りません。そういうことで、神さまは私たちを特別に創られました。私たちは言葉で祈ります。他の動物たちは祈りません。ですので、神さまは私たちを特別に創られました。

 人のいのちの大切さは、ここにあります。殺人だけでなく、自死も神さまのお心に反する、神さまを悲しませることなのです。今回は開きませんが、創世記9:5-6に、神さま自らそのことを言及しています。

 余談ですが、神さまは動物を種類に従って創られました。その中には家畜もいます。神さまは家畜をはじめから家畜として創られていて、その管理を人に任されています。ある小学校の道徳の授業で、いのちの大切さを学びました。その時、1人の生徒が、いのちの大切さがよくわかったので、家畜の肉をいっさい食べないと言い出したそうです。その生徒の担当の先生は、家畜のいのちと人のいのちの違い、また、なぜ家畜を食べても良いかを説明できず、お手上げだったそうです。しかし、聖書は、その答を明確に記しています。

 さて、話を創世記5章に戻します。5章では10人の名前を見ることができます。神さまは、1人1人の名前を覚え、1人1人を見守ってくださっています。
旧約聖書のイザヤ書49章16節には《見よ、わたしは、※たなごころにあなたを彫り刻んだ。》(※たなごころ=手のひら)。とあります。同じ個所を新改訳2017では《見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。》と書いています。神さまは、今の私たちも1人1人をおぼえておられます。

 また、ここでは、それぞれの寿命が現在と比べてとても長いことがわかります。私たちは、先に、神さまのおことばででき、神さまのおことばに従って歩む世界が非常に良かったことを学びました。

 アダムの罪とカインの殺人という全地への2重の呪いによっても、まだ、この時の環境や食べ物は、今とは比べ物にならないくらい良かったのでしょう。そして何より、彼らには、神さまの祝福と守りがあったのだと思います。

 しかし、そんな神さまの祝福の中にあっても、《そして彼は死んだ。》と言われるのです。死は避けられません。「死」は、最初の人アダムが犯した罪の影響であって、その罪を私たち1人1人も受け継いでいるのです。

 新約聖書のローマ人への手紙でパウロが言っています。6:23《罪の支払う報酬は死である。》
 神さまは私たちを神さまとの親しい関係がもてるように霊的な神さまのかたちにしてくださっています。しかし、私たちの罪がその障壁となって、神さまとの親しい関係を持てなくしています。これを霊的死と言います。私たちには、罪から来る肉体の死、またこの霊的死がついて回るのです。

2、エノク/神とともに歩む人々の希望
創世記5:24《エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。》

 5章で紹介されている10人のうち、7番目のエノクは他の9人とは違います。「そして彼は死んだ。」とは言われずに、《神が彼を取られたので、いなくなった。》と言われています。エノクは神さまが、私たちがいる地上から、神さまのおられる天にいきたまま移されました。これはどのようにして起こったのでしょうか。

 新約聖書でエノクの事を言及している箇所があります。そこを見ると、
新約聖書 ヘブル人への手紙11:5
11:5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。

 《信仰によって》と書かれています。また、エノクの歩みは神さまに喜ばれる歩みであったことがわかります。《あかしされていた》とあるので、神さまのことや、おことばに従うその信仰の歩みについて、人々にも説いていたのでしょう。

 また、新約聖書のユダの手紙を見ると、エノクは、死を見ることなく、神さまとともに天に住まうことを信じて、その希望をもって、神さまを証ししていたと書かれています。
 世の人々が、神さま抜きで町づくりをし、産業、文化をもって目に見える部分で、快適にまた、楽しむことを優先している時に、エノクは、まったく、別の世界を見ていました。
 神さまは、エノクを信仰に歩む人々の希望とされたのです。

 「朱に交われば赤くなる」という言葉がありますが、世の流れ、慣習、伝統、多数の力や影響力の大きさは言うまでもありません。しかし、逆に特別な1人の存在の大きさも否定できません。
 たとえば、昨年野球のアメリカ大リーグで大活躍した大谷選手などはその例でしょう。ピッチャーかつバッターとして共に素晴らしい優秀な成績を残す二刀流を実現させ、野球本来の楽しさをアピールして大いに野球ファンを楽しませ、また増やしました。

 神さまは、エノクを信仰にある人々の希望の光として、本来あるべき神さまとともに歩む人々の姿を示されたのです。

 今の私たちには、その希望は、神さまのひとり子イエス・キリストの十字架でより明確に神さまが示してくださっています。自分の中にもアダムから受け継いだ罪があることを認めて、イエスさまの十字架の死が、その罪のための身代わりの死だと信じる者は、誰でも、罪赦され、与えられる永遠のいのちによって神さまとともに生きるのです。罪と死に対する解決がそこにあります。

3、悪の蔓延/証し人を用いられる神さま
創世記6:1-3
6:1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、
6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
6:3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。

 6:2の《神の子》というのは、5章の神さまのみこころを求めて信仰によって歩んでいた人々です。ところが、神さまを仰ぎ見るべき目を、人の娘たちの表面的な美しさに向け、そして妻とします。

 神の子たちが、神さまの思いではなく、自分の思いで、歩み始めたのです。
 神さまのおことばを聞かない歩みは、罪の上に罪を重ねていくカインの道の歩みであることは、すでに見てきました。1つの悪が悪を呼び悪の連鎖によって悪が広がりはびこっていきます。その状況が6章5節に記されています。

6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。

 6:3の肉とは、人が自分の思いで欲のために行う、自己中心的で、宇宙万物と人を創造された創造主を顧みない行為を神さまが言い表したものです。神さまはそのことで、人が生きる最長寿命を120年に短縮されたと言います。
 6:4ネピリムは、神を恐れない権力者たちで、しかしそんな彼らが、神なしとして歩む人の目には、勇者であり有名人となっていました。

創世記6:6-7
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

 神さまが悔いたというのは、痛みを覚えて悲しむという意味で、人間のように結果をみて後悔しているということではありません。

 神さまは、罪や悪と共存されない聖いお方ですから、《わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。》と言われています。
 しかし、この時代、人が神さまから離れて、神さまを無視して歩んでいるときに、ノアだけは、神さまとともにありました。ノアについては、次回見ていきたいと思います。

 本日の箇所では、罪の影響力と大きさを見てきました。この罪がもたらすものは肉体の死であり、また、神さまとの親しいかかわりが断ち切られる霊的な死でもありました。(霊的=神さまと人との関係)
 しかし、神さまと共に歩む信仰は、罪と死に解決が与えられる希望に満ちた信仰であることがエノクによって証しされています。現代の私たちには、イエス・キリストの十字架でより明確に示されています。

 人が神なしで自己中心に歩めば、やがて悪のはびこる世になっていく現実が教えられています。創世記を記したモーセは、神さまを不要とする世界に対して、当時、ご自身が選ばれたイスラエルの民が、神さまと共にあって神さまを証しする民となれるように、世界の民の希望の光となるようにと願っていたのでしょう。神さまは、1人のエノクを、世の証人として用い、世の光、希望として輝かせられました。

4、むすび
新約聖書マタイによる福音書5章14-16節では、
5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 と、神さまと共に歩む人に向かって語られています。

 神さまは、私たち1人1人が神とともに歩む信仰者となるように願っておられます。そして、世の光として輝かせ、証人として用いようと願っておられます。

2022年1月23日(日)
メッセンジャー:香川尚徳師