素直に読む【ヨハネの黙示録_16】

ヨハネの黙示録9章1-21節
「魂の救いのために」

〈はじめに〉
 今回の9章以降、続く第5のラッパと第6のラッパとが詳しく展開され、第7のラッパでは、さらにそれが、7つの金の鉢にさらに細分化されて、16章から、その鉢が傾けられることによる患難が進行していきます。今回の箇所を見ていきましょう。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録9章1-12節を読みます。

9:1 第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。
9:2 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。
9:3 その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。
9:4 彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。
9:5 彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。
9:6 その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。
9:7 これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、
9:8 また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
9:9 また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。
9:10 その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。
9:11 彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。
9:12 第一のわざわいは、過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。

 1-12節では、先の自然災害、環境破壊をのがれて残された3 分の2 の人々が苦しみを受ける災いがやって来ます。
 ただしここには、7章で神さまのしもべとしての印を押された信仰者は含まれていません。
 9章1節、第5 のラッパが鳴ると、天から一つの星が地に落ちてきて、底知れぬ所の穴を開くカギが与えられたと言います。これはヨハネの黙示録8章10節の星とは違い、神さまから遣わされた天的存在を指しているのでしょう。
 ルカによる福音書10章18節を読みます。

10:18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。

 と記されていますが、まさにこのイメージを星と捉えているのだと思います。

 9章2節の《底知れぬ所》は、サタンが閉じ込められている場所を指しています(黙示録9章11節、20章1節)。そして3節、そこから恐ろしいイナゴが出てきます。それは地の深い、牢獄とも言える場所で、サタンと一緒に閉じ込められていたイナゴです。神さまは、サタンをもご計画に用いられます。ですので、このイナゴは、サタンの側か、神さまの側であったかは不明です。いずれにしても4節で、イナゴは額に印のないすべての人たちを苦しめるのです。

 9章4-6節を見ますと、このイナゴは、出エジプトの登場する8番目の裁き(出エジプト記10章12節)のイナゴとは違います。外見も普通のイナゴとは違います。草木は食べず、サソリのような尾と針で人に耐え難い激痛で5ヵ月間もの間、苦しみを与え続ける毒を持ちます。この痛みは、だれもが死にたいと思うほどの激痛なのに死ぬことはできず、苦しみ続けなければなりません。

 前の4つの患難で、自然破壊をもたらされた神さまは、5番目として毒を持つイナゴによって、神の印のある者以外が、苦しみ続ける様子が示されています。人々が苦しみを受けることで、苦しんでいない人は信仰者であることに気づき、この苦しみが実は神さまからの罰だと分かった者が悔い改めに導かれるようにされています。

 黙示録9章12節を見ますと、御使いによる第5のラッパが吹き鳴らされることで、おそらく、ここから本格的な大患難がはじまると考えられます。なぜなら、第5のラッパによって始まるさばきが《第一のわざわい》と呼ばれているからです。
 ヨハネの黙示録13-21節を読みます。

9:13 第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある金の祭壇の四つの角から出て、
9:14 ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。
9:15 すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。
9:16 騎兵隊の数は二億であった。わたしはその数を聞いた。
9:17 そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っている者たちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。
9:18 この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。
9:19 馬の力はその口と尾とにある。その尾はへびに似ていて、それに頭があり、その頭で人に害を加えるのである。
9:20 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
9:21 また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。

 9章13-14節、第6 のラッパを鳴らした天使に呼びかける声があって、大ユウフラテ川のほとりにつながれている4人の御使いを解き放つようにとの指示がありました。この御使いたちは、つながれていたのですから、黙示録7章で地を保護するために地の四隅に立っていた御使いとは違い、サタンに引き込まれ堕落した御使いだったのではないかと考えられます。

 第5 のラッパでは、死は与えられません。そこで、なお、悔い改めようとしない者たちを裁くために、今度は人を死に追いやる、邪悪な御使いたちが遣わされたのです。9章16節を見ますと、実際に人を死に追いやるのは、この御使いが指揮する2億の騎兵隊です。

 神さまは、先に5ヵ月間、苦しみの中で、人々が悔い改めに導かれる機会を与えられていました。それでも神さまのあわれみの御心が通じない、もはや回復不可能な人々を、神さまは死を持って罰せられるのです。9章15節を見ますと、この死も全員ではなく、3分の1にとどめられています。

 9章17節、馬の口から出る火と煙と硫黄とが、具体的に何を示しているのかは不明です。
 しかし、この馬の近寄りがたい様相から、おそらくは核兵器や化学兵器、細菌兵器などを示しているのでしょう。人間が自分たちの愚かさから作り出し、自滅へと導く兵器を使用する戦いが、騎兵と恐ろしい馬という形となって預言されているのでしょう。
 科学技術がどれだけ発展し、知識や社会生活が高度になっても、それが人類を破滅へと追い込む、もはや誰も止めることのできない世界になることが示されています。人は、悪くなって行くことはあっても、決して良くなって行くことはないという真理が示されています。
 創世記6章5節を読みます。

6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。

 9章18節で3分の1が滅んでも、9章20節を見ますと、自分たちの愚かさを気づこうとせず、ますます神さまに逆らい、自分たちの思いに従って、悪霊の類や偶像の神への礼拝をやめようとしない、懲りない姿が描かれています。

 神さまの働きかけが、どうして、これほどまでに無駄になってしまうのでしょうか。もう人は変わることができないのでしょうか。そうではないでしょう。全知全能なる神さまが、ここまでされるのであれば、変わることのできる人は、皆無ではない。ということです。

 神さまは、もはや忍耐はここまで。と、一気に裁きをされるのではなくて、患難を小出しにされながら救いに導くという忍耐深い、慈悲深いお方であることが分かります。どこまでも救われる人を追求し続けてくださるお方なのです。
 ここまでの黙示録の展開をみても、神さまのそのようなお姿が明確に示されています。
 私たちに求められているのは、そのような神さまを認め、理解することなのです。

〈まとめ〉
 第7の封印が解かれて、その災いが細分化された7つのラッパが鳴り響くのですが、その内の第6のラッパを合図になされた災いまでを見てきました。

 神さまがご創造された自然の破壊、環境の破壊がもたらす恐ろしい災害(第4のラッパまで)、その上に、恐ろしいイナゴの襲来で、耐え難い苦痛をもたらし、死ぬこともできない状態に置かれ(第5のラッパ)、さらに、それで終わらず、死の御使いが遣わされ、おそらく戦争で恐ろしい兵器が使われて、残っている人間の3分の1が死に追いやられる恐ろしい光景(第6のラッパ)が描かれていました。

 しかし、神さまの印を押された信仰者は、この患難時代のただ中にいながら守られているのです。
 ここまで進んでくれば、守られている者とそうでない者の違いは目に見えて明かでしょう。
 それでも、ますます心を頑なにし、占いや偶像に走り、犯した罪を悔い改めようとしない頑なな人間の本性が明らかにされています。
 私たちはどうでしょうか。心が頑なになっていないでしょうか。
 少なくとも私は、神など要らない、自分だけで好い。と、頑なに40年生きてきました。

 救われている私たちも、頑なな心のままで滅びるままに放っておかれても不思議ではありませんでした。でも、神さまは、私たちを追い求め、導き続けてくださったので、今、神さまとの平和をいただいているのです。

 もう、ここに住めないと思うほどの環境の変化、5ヵ月の死にたいほどの苦しみ、自分たちが作った兵器によって人類の3分の1が滅んでも、なお、頑なに、悪霊や偶像にたよる人の本性をあらためて教えられました。
 とすれば、私たちが、福音を語っても、人々がますます心を頑なにしてしまうのは、ごく自然なことです。でも、神さまはあきらめられません。どこまでも、どこまでも、忍耐とあわれみをもって追い求めて続けられます。この世の終わりまでずっと求め続けられます。

 そんな神さまは、救いをいただいた私たちに期待しておられます。「あなたも同じかたくななところがあるでしょう。だから私の忍耐をもって、私の追い求める魂の救いのためにともに働いてくれないか」と言っておられるのです。
 信仰者それぞれに与えられた働き方、働く場所で、あきらめることなくイエス様を証しし続ける信仰者であるようにと神さまは願っておられます。

2024年9月20日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_16】
タイトル:「魂の救いのために」
牧師:香川尚徳