ショートメッセージ【サマリヤの女③】

ヨハネによる福音書4章16-26節
(心が開放された女性)

 前回のところ、ヨハネによる福音書4章6-15節では、イエス様が、サマリヤの女性に《生ける水》で、霊的な渇きを潤すように導かれていました。それは、ご聖霊に導かれて、神さまと、その一人子であるイエス様との愛の永遠の交わりに加えられること、そして、そこから愛や喜びや平和(平安)が、泉となって湧き上がり、潤いある生活が続けられることでした。
 その愛や喜びや平和(平安)は、他の人をも潤していく、その恵みの状態こそが、《生ける水》《永遠の命》に至り、あふれている状況だと教えられました。
 今回は、ヨハネによる福音書4章16-26節を見ます。 

1、心が開放された女性
 ヨハネによる福音書4章16節を読みます。引き続きイエス様とサマリヤの女性のやり取りです。

4:16 イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。

 前回の箇所4章15節では、女性が、《「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。》と言っています。それに対して16節のイエス様の発言は唐突に聞こえます。

 しかし、これは、女性が物質的な水への考えから離れられず、霊的な話をされているイエス様との話が噛み合わないので、イエス様が話題を変えられたのです。

 もう一つの理由としては、イエス様には、この女性が自分の心を隠したまま、自分にとって良くなることだけを考えていることがよくわかっておられました。
 そして、女性のこれまでの生き方を指摘して、心を開かせようとしてこのように導かれたのです。

 《「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。》という問いは、女性が自身で隠そうとする闇の部分(魂の飢え渇き)をあくまで隠そうとするのか。あるいは、正直に告白して、自分を差し出し、心の闇を照らし出してもらおうとするか。の二者選択を迫るものでした。
 はたして、女性の答えは。
 4章17-18節を読みますと、うそで覆い隠そうとまではせず、しかし、心は頑ななまま開かれていない中間的な回答でした。
 では、4章17-18節を読んでみましょう。

4:17 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
4:18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。

 すると、イエス様は、私はあなたのすべてを知ってる。それでも尚、あなたは、うわべを取り繕って私に心を開こうとしないのですか。と、「確かに、あなたが夫はいないと言ったのはその通りだが、しかし、過去には5人の夫がいて、しかも5回離婚しており、今いっしょにいる(同棲している)男性は確かにあなたの夫ではない」と言われたのでした。

 ここで、この女性は観念します。この方の目に、何も隠すことができないということが分かり、彼女は自分の心の中を開放します。4章19節を読みます。

4:19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。

 と言ったのでした。
 この女性は人々に対しても、神さまに対しても不満があり投げやりで、自分でも自分の姿を直視しない生き方を選んで、いわゆる自暴自棄の生き方をしてきていたようです。しかし、心の奥底の霊は死んでおらず、神さまに対する飢え渇きを持ったまま閉じ込められていました。

 女性は、すべて明らかにされて恥ずかしい。と思う以上に、自分のことを見てくださっている神さまがおられること、そして、神さまが、自分の闇を見ておられることを感じ入りました。

 これまで人目を避け、自分自身の闇にも目を向けずに生きてきても、神さまの目から隠れることも逃れることもできないのだ。そう観念しました。この女性は、自分を覆い隠していたものをすべて脱ぎ捨てて、心を開き、大きく変えられたのです。
 4章20節を読みます。

4:20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。

 女性は、覆い隠していたものをすべて脱ぎ捨てて、奥底の眠っていた渇いた霊が目覚めて、礼拝の大切さに気付かされたのでしょう。この当時、礼拝の場所は、とても大切なことでしたので、女性はどちらが正しいのかを聞きました。
 4章21-23節を読みます。

4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

 イエス様は、2つ教えられました。
 1つは、この山(ゲリジム山)は、神さまが臨在される場所ではなかったことです。《救はユダヤ人から来る》と言われています。
 当時、サマリヤ人は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを聖書としていました。しかし、その信仰は、神さまの御心の真意が見えておらず、救いの正しい受けとめ方は、ユダヤ人に示されてきた。とイエス様は言われたのです。

 2つ目は、礼拝における礼拝場所が重要であった時代は終わり、神さまは、どこにでもいてくださる。そして、礼拝場所を規定することなく、神さまを礼拝する時が来る。いや、もう来ているということでした。
 4章24節を読みます。

4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 神さまは、人をお造りになった時に、神さまと向き合うことのできる命の息を吹き込まれ、(創世記2章7節)人を、霊的なかたちに造られました。神さまの本質的なご性質は霊ですから、礼拝する者が、神さまの前に立つ時、神さまの霊であるというご性質を無視することはできません。

 礼拝する者が、神さまと向き合うように吹き込まれた命の息(霊)を働かせないで、礼拝することはできないのです。命の息を吹き込む力を持つお方、この神さまをあがめ、拝する礼拝でなければならないと言われています。

イエス様は、《まこととをもって》とも言われています。つまり真実から、虚栄心や嘘偽りのない心でという意味です。
 この《霊とまこととをもって》とは、自分に命の息を吹き込んでくださった霊なる神さまと向き合うことを意識して礼拝する。ということでしょう。
 命の息を吹き込む力を持つお方が、自分の命を吹き込んでくださった。その命なる神さまに結びついた者としての礼拝をささげる大切さを教えらえています。
 4章25-26節を読みます。

4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

 女性が、サマリヤでも伝えられていたメシヤ=救い主が来られることについて触れ、その御方が来てくださった時に、すべてが実現するのですね。と問いました。
 するとイエス様は、このわたしがそうだ。今がその時だ。と宣言されました。

 イエス様は、サマリヤの女性に対して、今、開放された、あなたの霊で、霊なる神さまを仰ぐ礼拝をしなさい。それがあなたのなすべき礼拝です。

 キリストと言われるメシヤが、今ここにいるのですから、罪から救う救い主によって、覆われた罪の心から開放されて、神さまと、もとの状態(創世記のへびに誘惑される前)として、霊的に回復させていただいたのですから、その霊で神さまに礼拝を献げるように。と言われたのです。

 もう一度、ヨハネによる福音書4章24節の《神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。》のお言葉に注目しましょう。

 イエス様は、私が来たことで新しい礼拝の時代がきましたよ。と、おっやっています。
 これまでの準備の時は終わったのです。神さまはどこにでもおられます。今あなたがいる場所が、神さまもご臨在されている場所であり、そこが霊とまことを持って礼拝をささげる場所となります。

 覆われた罪の心から解き放たれて、神さまが吹き入れてくださった命、霊によって、霊である神さまを仰ぎ、神さまから流れ込んでくる命の息の恵みを受け続けなさい。

 それこそが、神さまの求めておられる霊とまことをもっておささげする礼拝です。と言われたのです。真実から、つまり、うそのない心で、霊なる神さまと向き合うことを意識して礼拝をしなさいと教えられています。
 自分の命そのものをお造りになった、その大元であるお方に向かって礼拝をお献げするとき、自然に恐れ、尊敬、感謝、へりくだりが起こされるのではないかと思います。

 このサマリヤの女性は、人間的に素直だったわけではありません。知恵に優れていたわけでもなかったと思われます。ただ彼女の霊は生きていました。

 肉の思いによる、自分中心の固い心に何重にも包まれていましたが、死んでいませんでした。人の思い、肉の思いが強ければ、霊はなかなか開かれません。
 しかし、その人の堅い心が砕かれる部分がわずかでもあれば、霊は開かれ、神さまからの命の恵みが流れ込んできて霊が勢いを増して開放されていくのです。

 この女性のように、すべての人の頑なな心の中にも、生きた霊が眠っていることを覚えて、一点を突破すればあとは神さまがその心を開放してくださる、このことを心に抱いて、あきらめることなく福音を伝え続ける大切さを教えられています。

2024年9月22日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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