ショートメッセージ【サマリヤの女⑤】
ヨハネによる福音書4章39-42節
(慰められた女性)
1、慰められた女性
前回、4章25-38節では、サマリヤの女性の女性の大きな変化の様子を見ました。
サマリヤの女性は、飲み水の入った水がめがよりも、イエス様から注がれるいのちの水の大切さを知り、人々にも伝えなければ。と思わされたのです。これまで避けていた人の目も気にせず、人前に出て伝えました。
イエス様を信じて罪を赦され、罪に染まらないように御言葉を日々、鏡として歩むことを一番にすれば自ずと他のものもついて来て豊かな人生を歩むことができるのです。
サマリヤの女性はそれが分かりました。
今日の箇所は4章39-42節です。
1、慰められた女性
ヨハネによる福音書4章39-41節を読みます。
4:39 さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。
4:41 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
この女性はこの前、イエス様に素性(裏事情)を明かされていました。
4章18節を読みます。
4:18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
この女性は、不品行なところがあり、自分勝手な所があり、人目を避けるため、日中の暑い時間帯に、井戸へ水を汲みに行きました。
サマリヤの人々からの評判は、決して良くなかったでしょう。にもかかわらず、サマリヤの人々はそんな女性の言葉に耳を傾けました。
どうしてなのでしょうか。彼女の言葉をもう一度見てみましょう。
4章29節を読みます。
4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
まず、女性は、イエス様から生ける水の話やまことの礼拝の話も聞いたのですが、何よりも、自分の素性を言い当てたられたことに驚いて、それを救い主キリストの根拠として伝えています。
そして、これまで人目を避けていたのに、人前に出て行って伝えたのです。
サマリヤの人々は、この女性の変わりように驚いたと思われます。
この女性は、素性(裏事情)を言い当てられたことで、イエス様が、自分の罪や自分の弱さ、孤独で虚しい思いなどを全て知ってくださり理解しておられることが分かり、そのことで大いに慰められたのだと考えられます。そして、イエス様との会話で、これまで考えられないほどの喜びがあふれた女性は、町の人々に、つい、力強く証ししたことで、町の人々は、これまでの女性の言動から大きく変化した姿を見て、目を引かせ、聞く耳を持たせたということでしょう。
もう1つは、サマリヤの人々の側の状況です。
《もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。》という言葉、これは、「きっとこの方がキリストではないでしょうか。」といったくらいの口調の言葉と先週お話ししました。
いずれにしても、サマリヤの人々は、このキリスト、救い主という言葉に惹かれたのです。
なぜでしょうか。
サマリヤの人々の信仰は、長年ゲリジム山で礼拝をささげ、モーセの律法を重んじて、つまり旧約聖書のモーセ五書だけを聖書として信じて歩む信仰でした。しかし、ユダヤ人からは、それは正統な礼拝ではないと指摘され、異教扱いされてきたのです。
とすれば、サマリヤの人々の中にも、本当にこの礼拝で正しいのか、神さまが喜ばれているのかとの疑問がどこかにあったはずです。
旧約聖書の預言書を受け入れていなかった彼らには、救い主キリストの預言は、はっきりしたものではなかったでしょう。
それだけに、キリストが来られれば、何が正しいのか、女性の言葉のとおり、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られたならば、わたしたちに、一切のことを知らせて下さるでしょう」。 と、メシヤなるイエス様への期待が大きかったのです。
そして、その期待は、神さまに対して正しい方向でした。ユダヤ人のようにローマ帝国を倒す救い主への期待ではなくて、正しい礼拝や信仰についての期待だったのです。
ですから、彼らは、しるし(神としての奇跡)を求めず、信仰や礼拝について教えていただくためにイエス様に留まるようにお願いし、イエス様もそれが分かっていたので快く2日間滞在されて、教えられました。
そして、多くの人々がイエス様を救い主として信じたのです。
もし、ここにユダヤ人たちがいたなら、女性と同じように、私の素性も当ててください。と、イエス様にしるしを見せることを迫っていたことでしょう。
しかし、サマリヤの人々は違いました。そして、全く変えられた女性の言葉に耳を傾けて、その女性のキリストという言葉に正しい信仰で反応したのです。
4章42節を読みます。
4:42 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。
42節から分かることは、女性がそのままイエス様のもとに留まっていたということです。多くの人々がイエス様のところに来て、では失礼します。ではなくて、多くの人々と一緒に、イエス様のお話しを聞いていたということです。
女性は、一時的にイエス様から目先を変えられたのではなくて、生き方そのものが変えられたということでしょう。
さらにサマリヤの人々は、わざわざ自分自身で、《わかったからである。》と言っています。これは、仲介者となった女性にいつまでもあなたのお蔭だと思われたくない。という、そういった思いではなく、今は、このお方を直接見、直接聞いたことによって、自分自身でイエス様を救い主と信じた。選んだ。という報告です。
本日のところでは、この女性が慰められたことによって、その後の生き方が変えられたことに注目しましょう。
この変化は一時的ではありませんでした。多くの人々が来てイエス様のお話を聞くその輪にとどまり、一緒に話を聞いていました。
人々を恐れ、人々からの評判を恐れ、人目を避けていた女性が全く変えられました。
コリント人への第2の手紙1章3-4節を読みます。
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
救い主イエス様はどんなお方でしょうか。天の栄光を捨てられたお方、地位をなくされました。私たちの罪をすべて負った、無実であったのに。
無実の罪、えん罪をこれ以上なくかぶったお方、何も悪くないのに罰せられたお方。
罪人ではないのに、罪人とさだめられた故に、父なる神さまから見捨てられて「どうしてわたしをお見捨てになったのか」と叫ばれたお方、人が最大に苦しむことを目的に考え出された十字架の刑で、誰よりも苦しまれたお方。
どんな痛みも、苦しみも私たち以上に味わったお方です。そのお方が、ともにいてくださる。どんなに苦しくても、あなたは1人ではない、決して1人にしない、あなたの苦しみは私がすべて味わった苦しみ、あなたの痛みもわたしがすべて経験した痛み、その重荷をともに負うと言ってくださるイエス様が、いつも一緒にいてくださっています。
イエス様は、いつでも共にいてくださり、あなたの痛み苦しみは、私の痛み、私は、あなたのその痛みも、苦しみも経験をもって理解しています。その痛み、苦しみを共に負いますよ。と、慰めてくださるお方です。この方に委ねて、慰めをまた励ましをいただきましょう。
もうひとつ教えられることは、サマリヤの人々は、女性に4章42節で、
4:42 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。
といいました。信仰は神さまと直接出会い、直接、御言葉に触れ、直接、味わって、神さまと向き合う1対1の関係において養われていくということです。
私たちは、その手助けとして、求道者と神さまの間に置かれることがあります。しかし、私たちは、あくまでも。その方が神さまと直接出会うまでの導きです。
いつまでも信仰者と神さまとの間に立つようにはされていません。それは、大祭司イエス・キリストにだけ与えられた役割です。
この分をわきまえて、しかし、大胆に慰め主イエス様を人々に紹介していきましょう。
また自分自身、私のすべての痛みと苦しみを分かってくださるイエス様に頼り慰めを受けましょう。
その受けた慰めで、人の慰めにも用いられてまいりましょう。
もう1度、コリント人への第2の手紙1章4節を読んで終わります。
1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
2024年10月6日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
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