ショートメッセージ【ユダ】

マタイによる福音書26章14-16節、他
(イエス様を裏切ったユダ)

1、イエス様を裏切ったユダ
2、イエス様に失望したユダ
3、自分に失望したユダ

 本日は、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダを見ます。

1、イエス様を裏切ったユダ
 はじめに、4つの福音書から1節ずつ読みます。

 マタイによる福音書10章4節
10:4 熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。

 マルコによる福音書3章19節
3:19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、

 ルカによる福音書6章16節
6:16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。

 ヨハネによる福音書6章71節
6:71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 イエス様の弟子であったユダがイエス様を裏切った事実は4つの福音書すべてに記されています。
 次にマタイによる福音書26章14-16節と26章48-49節を読みます。

26:14 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って
26:15 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。

 (参考:マルコ14章10-11節、ルカ22章4-6節)

26:48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
26:49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

 (参考:マルコ14章45節、ルカ22章47-48節)

 ユダの実際の裏切り行為は、イエス様に対立するユダヤ教の宗教指導者たちに、お金をもらうことでイエス様を売り渡したのでした。ここで捕らえられたイエス様は、逃げることができたのですが、すべて承知の上で、十字架に架けられて死んで葬られることになります。

 当時、接吻は、弟子が師に対する最大の敬意を表す表現でした。それが裏切りの合図として利用されたというのは、なんとも恐ろしい限りです。これは、自分の裏切りが、弟子たちに知られないためというよりは、イエス様に安心や油断をさせて、イエス様を確実に捕えるために敬意を表する接吻を悪用したのだと考えられます。

 しかし、それ以前に、管理する弟子たちのお金を盗んでいたことが記されています。これも弟子としての裏切りと言えるでしょう。
 ヨハネによる福音書12章4-6節を読みます。

12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。

 ではなぜ、ユダはイエス様を裏切ったのでしょうか。
 聖書は、ユダが、お金とサタンに囚われていたという事実しか語っていません。
 イエス様を売り渡した時の銀貨三十枚というのは、ある本によれば、当時で4ヵ月分くらいの給与だそうです。目が飛び出るような、一生暮らせるようなそんな大きな金額ではありません。
 弟子たちから預かったお金を盗み取ってもいましたが、小遣い程度であったでしょう。ですから、お金のためだけでイエス様を裏切ったということではないことは分かります。とすれば、あとはサタンの仕業ということになります。

 聖書は、これ以上詳細を語っていませんから、あとは、それぞれが考えてください。ということなのでしょう。
 ここで終わるのが良いのかもしれませんが、この先、私なりに、ユダの裏切りの理由を考えてみましたので、お付き合いいただければ幸いです。

2、イエス様に失望したユダ
 ユダも12弟子の一人として3年間、イエス様に付き従い、イエス様を間近に見つつ歩んできました。
 ある時は、イエス様のご命令によって、二人ずつの組で宣教に遣わされ、霊的にお仕えし、神さまの器として用いられていました。
 ルカによる福音書22章3節を読みます。

22:3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。

 ヨハネによる福音書13章2節を読みます。

13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、

 聖書は、ユダの裏切りの理由に、“サタン=悪魔”の働きがあったことを伝えています。
 しかしながら、イエス様の弟子として歩んでいたユダをサタンが勝手にロボットのように操れたということではないでしょう。
 ユダの側に、サタンに自由にさせる心の状態、“隙”があったのです。

 ユダは、イエス様への不平不満が生じて、それがイエス様に対する失望となり、そこをサタンに捕われて、サタンに心を売り渡してしまうことになったのではないかと考えられます。
 ルカは、このような状況をルカによる福音書22章3節で《イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。》と言っています。

 イエス様は、最後まで弟子たちを愛し通されました。
 しかし、サタンもそれをただ見ていたわけではなかったのです。一番切り崩しやすいところを攻めて、そこから全体を揺さぶろうと考えていました。イエス様の愛する弟子たちの中から裏切るものが出れば、最も効果的にイエス様とその働きに大きな打撃を与えられることをサタンは分かっていたのです。

 ユダは、金庫番だったので、ある時から金に目がくらみ、ごまかすようになっていたということが、すでにヨハネによる福音書12章6節で示されていました。
 ユダは、イエス様が自分の期待していたような救い主ではないと思い始めていたのでしょう。
 これは、他の弟子たちもそうでしたが、ユダもイエス様が、ローマ帝国を倒して、今すぐ神の国を地上に建ててくださることを望んでいました。
 使徒行伝1章6節を読みます。

1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。

 イエス様の復活後にも弟子たちは、まだ同じ希望を持っていました。この思いはそれだけ弟子たちの間に強かったのです。
 マタイによる福音書16章21-23節を読みます。

16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 しかし、イエス様が示されたのは、ローマを倒す力強い王ではなくて、多くの苦しみを受け、殺される弱々しい王でした。
 それでは、なぜ、他の弟子たちは従い続けることができて、ユダは裏切ってしまったのでしょう。この箇所ではペテロにもサタンが働いていたことが示されています。

 他の弟子たちもユダと同じように危なっかしいところがありました。しかし、ユダとの間には大きな違いがありました。それは、彼らのイエス様への思いが、心から離れることがなかったということです。

 この時のユダは、イエス様から思いが離れてしまっていました。
 福音書を読むとイエス様は、何度もユダに心をあらためて悔改めるきっかけを与えておられましたが、ユダは全く反応していません。こうなれば、サタンは何にも妨げられることなく、自由にその思いを注ぎこんでくるのです。それが、知らず知らずの内に、サタンの“しもべ”になるように取り込むサタンの手口なのです。

 ユダは、イエス様は、メシヤとして必ずローマを倒し、神の国を今、立ち上げてくださるはず。という自分の思いに自信があり、その思いにこだわり続けて頑なになっていたのです。
 自分が納得できるようにイエス様が働いてくださる事だけを求めていたのです。ですから、イエス様の語られた深い真理を受け入れることができずに、不満が募り、そして失望し、挙句の果てに、自分の納得できる心だけに信頼を置いて、神さまであるイエス様に信頼することが出来なかったのです。

 他の弟子たちもユダと同じように心許ない歩みでしたが、最後はイエス様を最優先し、イエス様のお言葉を受け入れることができたのです。
 ここでユダと他の弟子たちとの間に大きな違いが生じたのです。

3、自分に失望したユダ
 ユダは、自分の計画や思いを狂わされた偽キリストとして、イエス様に罰を受けてもらおう。と考えて、ユダヤ教当局にイエス様を引き渡したのです。しかし、ユダは、イエス様が十字架刑にまでなるとは考えていなかったでしょう。そうと分かって、彼は大いに後悔して自責の念に囚われます。
 その結果、ユダは自分の浅はかな考えと行動に失望し、自分の人生にも見切りをつけることになりました。

 自分の愚かさが示されて、こだわってきた自分の思いに失望したときこそ、イエス様に立ち帰るチャンスでした。
 マタイによる福音書26章50節を読みます。

26:50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。

 実際、イエス様は最後まで、その機会をユダに与え続けておられたのです。イエス様を捕らえに来たユダにイエス様は、《「友よ、なんのためにきたのか」。》(マタイ26章50節)と声をかけられています。

 しかし、神さまの前に、心が砕かれようとしないユダは、悲しい結末を選んでしまいました。
 世においては、自分の堅固な思いに固執することが、強い人間であるかのように教え、また、そのように見えるように仕向けます。しかし、実際、そういう人が一旦、自分の思いに失望したら、人生ごと崩壊してしまうようになります。

 信仰とは、浅い自分の思いにこだわることをやめて、深い神さまのお心を受け入れ、その御心にこだわる生き方に切り替えていくことなのです。それが、弱いように思えても本当の強さに歩むことになるのです。

 サタンは、私たちの弱さと、神さまへの不平不満、疑いなどの心に働きかけてくるのです。このようなものがなければ 働きかけられないのです。

 私たちは、神さまのなさることに無意味なもの、無駄なものは何一つなく、すべては、私たちの信仰が引き出されて、強く立っていくために起こる出来事であることを受け入れることが大切です。
 そして、このことが神さまの御栄えを現す生き方に導く神さまのご計画であることを理解して、神さまへ完全に信頼を寄せていけば、不平不満や失望は遠くへ追いやられます。サタンは、このような信仰者にとりつくことはできません。

2024年10月13日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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