ショートメッセージ【パウロ_10】

使徒行伝15章1-12節
(福音と異邦人の文化/エルサレムの使徒会議_前編)

1、異邦人の信仰生活について
(1)モーセの慣例と異邦人への適用問題
(2)解決と決議
 ①ペテロの意見
 ②バルナバとパウロの証し

 ↓  ↓  ↓  ↓  次回
 ③ヤコブの意見
 ④会議結果の伝達
2、パウロとバルナバは分かれて宣教を再開する

1、異邦人の信仰生活について
 西暦50年頃、イエス様に福音宣教を命じられた弟子たちにより、教会が建てあげられ、ユダヤ人のみならず異邦人も救われ、教会に集うようになりました。使徒行伝10章では、神さまは、ペテロに割礼をしない異邦人を受け入れるように啓示されました。使徒行伝11章18節を読みますと使徒や主要な人たちは納得したのですが、なかには、イスラエルの慣例である割礼に固執する人たちがいました。そこで、エルサレムで使徒や長老など、要職者らの会議が開かれました。

(1)モーセの慣例と異邦人への適用問題
 使徒行伝15章1節を読みます。

15:1 さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。

 割礼を受けることは、ユダヤ人クリスチャンからすると当然なように聞こえます。15章は、使徒たちや長老たちが、このことで会議をしました。異邦人信仰者にとっても、指導する彼らにとっても非常に大きな問題なのでルカは15章で取り上げています。

 1節はアンテオケの教会の出来事です。異邦人もユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われない。と説く人たちがユダヤ地方からやってきたのです。前回、パウロとバルナバが第一次宣教旅行からアンテオケの教会に戻って、《神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。》(14章27節)という箇所を見ました。次に、《そして、ふたりはしばらくの間、弟子たちと一緒に過ごした。》(14章28節)とありました。
 そのような中での出来事です。外部からは、イエス様を受け入れない人々からの迫害。内部からは、教会の信仰についての定義に関する問題が出てきたということです。組織が大きくなる時、当然のように、内部から問題は必ず出てきます。

 15章は、ユダヤ人と異邦人について、律法の解釈と言っていいでしょう。
 イエス様が来られて新しい定義をどのように定めるのか。パウロのいるアンテオケ教会の出来事をどのように考えて解決すれば良いのかを見ていきます。
 使徒行伝15章4節を読みます。

15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たち、長老たちに迎えられて、神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告した。

 エルサレムに到着したパウロとバルナバは、教会と使徒たち、長老たちに迎えられると、神さまが彼らとともにいて行われたすべてのことを報告しました。
 使徒行伝15章5節を読みます。

15:5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。

 ユダヤ人にとって、救いの対象は、神の民であるユダヤ人だけなのです。ですから、異邦人が救われるには、まず割礼を受け、その他の戒めを守らなければいけない、と言ったのです。たしかに、割礼も、戒めも、それ自体は、神さまがイスラエルの民に与えたモノですから、とても善いものです。パウロもローマ人への手紙7章12節で証ししています。

7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

 ですから当然のこと、ユダヤ人、とくにパリサイ派の人たちは律法を非常に重んじていたのです。しかし、この律法を大切にする熱心さによって、結果的に異邦人への救いの道を妨げてしまうことになるのです。つまり、神さまに逆らうような発言をしてしまっています。

 このように、かえって神さまの御業を止めてしまうという本末転倒なことが、教会の中で起こってしまいます。
 そして私たち自身個人の生活の中で起こっています。このようなことを聖書では、「無知」と言っています。口語訳聖書の新約聖書では、無知=知らない。知らなかった。ことについて10箇所以上言及しています。内容は、神さまを知らない。神さまの御旨やご計画を知らない。神さまを知らないから罪を行うことです。

 日本では、「法の不知は害される」「法の不知はこれを許さず」という言葉があります。あまり聞きなれない言葉ですが、意味は、法律を知らなかったことを理由に罪を免れることはできない。ということです。刑法38章3項に書かれています。

 いま、パリサイ派の信徒たちが、その“無知”ゆえに発言をしています。
 ただし、この事をルカも他の書簡も罪だと言っていません。ですので、注意してください。

(2)解決と決議
 使徒行伝15章6節を読みます。

15:6 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。

 教会を形成していく時代に、使徒や長老など主要メンバーが集まり協議していくことは、とても重要で必要なことでした。
 
①ペテロの意見
 使徒行伝15章7-10節を読みます。

15:7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、
15:9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。
15:10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。

 パウロやバルナバたちと律法(ユダヤ)主義クリスチャンたちとの間に対立が生じたとき、使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まりました。ここに世界で初めてのキリスト教界における公式な会議が開かれました。これがエルサレム会議です。

 このように重要な事柄を会議で決めるという伝統は、教会がこの長い歴史の中で大切に培い、養ってきたことです。
 それは、人間が知恵を出し合い、合意を目指すということよりも、教会の“かしら”なる主イエス・キリストの御心を尋ね求め、それを受け取り、それに従うために開かれるものです。

 信仰に入って間がない人や争いの嫌いな方にとって、教会の中で、このような対立が起こると自体、受け止められない。という方もいます。
 ですけど、教会は老若男女問わず、また、国や人種を問わず、主イエス・キリストに救われた者が集まります。教会が真理を究明し、自分たちが信じていることを極めていこうとする時には、このような論争や協議は避けられないこともあるのです。

 話し合う時は、誰しもが、神さまに愛されて存在ししていること、そして、聖書に書かれてあることを中心に、ご聖霊の導きを祈りながら話し合うことが重要です。逆に、教会に問題が起きない方が問題です。なぜなら、人に忖度しているか、教会に関心が無いからです。
 教会に問題が起こることが問題なのではなく、それをどのように解決していくのかが重要なのです。初代教会はこのような問題が起こったとき、その問題の解決のために真摯に話し合いました。

 15章7-11節に戻ります。ここでペテロは、使徒行伝10章に出てくる「コルネリオ」という人の救いの出来事について話しています。
 コルネリオは、「イタリヤ隊」というローマの部隊で百人隊長をしていた異邦人でしたが、家族そろって神さまを敬い、困っている人々にたくさんの施しを行い、いつも神さまに祈っていました。
 そんなコルネリオに、ある日、神さまが御使い(天使)を遣わして、幻の中で「ペテロという人を呼びなさい」と命じます。
 一方その頃、ペテロもまた不思議な幻を見せられ、その意味を考えていたところに、コルネリオが遣わした人たちがやって来ました。
 ペテロはその人たちと一緒にカイザリヤへ行き、コルネリオの家でイエス様の福音を語りました。するとコルネリオはイエス様を信じ、ペテロは彼にバプテスマを授けました。

 ペテロは、使徒行伝15章8節で、異邦人であるコルネリオが、モーセの律法を守っていなかったにもかかわらず、聖霊を受けたことについて話しています。
 コルネリオたちは、割礼(かつれい)を受けていませんでしたし、律法に従って生活していたわけでもありません。しかし、ただ福音を聞いて、それを信じただけで、神さまは彼らにご聖霊を与えられたのです。

 ペテロは、ご聖霊が与えられたということこそ、神さまが彼らを受け入れた証(しるし)だと語っています。つまり、私たち人間が勝手に「こうあるべきだ」と決めるのではなく、神さまがどのように働かれたか、その御業(みわざ)をよく見なさい、とペテロは言っているのです。

 また、10節の《負いきれなかったくびき》は、モーセの律法と、それにまつわる伝統的な口伝律法のことを話しています。あまりにも細かく、厳しい戒律だったので、ユダヤ人は、このすべてを守ることができませんでした。つまり、律法を守ることはできないことをペテロは話しています。
 15章11節を読みます。

15:11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。

 これが、新約聖書で明らかにされた、救いの教えです。救われるためには、ただ、神さまがキリストにあって成してくださったことを信じるだけであり、決して、人間側の意図や行ないによるものではない、と言うことです。

②バルナバとパウロの証し
 使徒行伝15章12節を読みます。

15:12 すると、全会衆は黙ってしまった。それから、バルナバとパウロとが、彼らをとおして異邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡のことを、説明するのを聞いた。

 著者ルカは、バルナバとパウロの発言については、13-14章の出来事がありますから《異邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡のことを、説明》とあり、ペテロの意見の補強として簡潔に書き記しています。

2025年6月1日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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