ショートメッセージ【パウロ_7】

使徒行伝13章38-52節
(パウロのメッセージ_後編)

2、パウロのメッセージ(前回の続き)
(3)救い主 - 罪の赦し
3、異邦人の救いの喜びとユダヤ人の妬みによる迫害

2、パウロのメッセージ(前回の続き)
(3)救い主 - 罪の赦し

 使徒行伝13章38-41節を読みます。

13:38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、
13:39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。
13:40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。
13:41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、/あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。

 パウロはこうして、聖書の預言とその成就について話したあと、結論を話しています。
 13章38節です。《だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。・・・》

 パウロがここまで話していたのは、聞いている人々が罪の赦しを得るためです。救いと言うのは、罪からの救いのことです。肉体の苦しみからの救い、経済的な苦境からの救い、人間関係の小競り合いからの救いでもありません。
 罪からの救いです。罪というのは、創世記のはじめに万物をご創造された、創造主である神さまに対して犯すものです。神さまが「…してはならない」と言われていることに違反することが罪です。この罪によって、アダムとエバは神さまから離れてしまいました。そして、その罪の性質は私たち人に受け継がれています。
 イザヤは言いました。イザヤ書59章1-2節を読みますと、

59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

 とあります。しかし、イエス様が私たちの罪のために、代わりに罪の罰を受けてくださったので、イエス様を信じる者は罪が赦されます。ですから、罪の赦しが救いなのです。

 ただ、聖書では、罪の赦しを得ると、さらに祝福を約束してくださっています。先ほど読みました、使徒行伝13章38-39節によりますと、モーセの律法によっては義とされることのできなかったすべての点について、信じる者は全員、この方によって、《義とされる》のです。

 《義とされる》の意味は、簡単で言えば免罪です。過去の罪、今の罪、未来犯すだろう罪、そもそも人間が帯びている罪の性質が赦されるのです。神さまが、私たちは罪人にも関わらず、まったく罪を犯したことのない者のように見なしてくださることです。ただイエス様を救い主と信じるだけで、そのように認められます。
 もう一度、使徒行伝13章40-41節を読みます。

13:40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。
13:41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、/あなたがたのとうてい信じないような事なのであ/る』」。

 パウロは最後に、この福音を受け入れないことに対する警告をしています。
 熱心に丁寧に説明を尽くしても、とうてい信じないと言っています。その根拠は、ユダヤ人は、律法の行ないによって救われようとしたので、イエス様による福音を多くの人が受け入れませんでした。
 ユダヤ人は、律法が絶対なのです。それが、モーセの時代から続くアイデンティティだからです。彼らは、捕囚の歴史を通して律法を守ることは絶対だというアイデンティティが形成されました。ですから、彼らからするとイエス様の福音の「信じるだけで、罪が赦されて、神さまから義と認められる。」というのは、ご都合主義に聞こえるのかもしれません。

 先祖から受け継いだ、伝統ある律法を守ると決めた真面目な人、自分がさほど悪い人間だと思っていない人は、福音を受け入れることができません。しかし、自分の中に、神さまの教えや律法に逆らう悪い思いや欲があることに気づいている人は、自分が罪人だと自覚しています。神さまの前に罪を犯していると思う人こそ、イエス・キリストの福音の素晴らしさを、本当の意味で“良い知らせ”として受け取ることができるのです。

3、異邦人の救いの喜びとユダヤ人の妬みによる迫害
 使徒行伝13章42-46節を読みます。

13:42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。
13:43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。
13:44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。
13:45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。
13:46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。

 使徒行伝13章45節を読むと、ここでもユダヤ人たちが“ねたみ”の心を持っていたことがわかります。
 “ねたむ”気持ちのきっかけは、その前の44節にあります。そこには、《次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。》とあります。つまり、たくさんの人々がパウロたちの語る福音を聞こうと集まってきた様子を見て、ユダヤ人たちは“ねたみ”を感じたのです。

 では、そのユダヤ人たちは福音を聞いていたのでしょうか?
 45節には《その群衆を見てねたましく思い》と書かれていますから、群衆が集まるのを見て反応しています。最初から福音の話をまったく聞いていなかったとは考えにくいです。
 むしろ、彼らは福音を耳にしてはいたけれど、その大切なメッセージが心には届いていなかったのだと思われます。

 ただ、ここで注目したいのは、福音は、人々に反応を引き起こさせるような内容なのです。
 13章44節の《次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。》のような反応と13章55節の《するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。》のような反応です。

 イエス様の福音は、人生の歩み方を問われているメッセージなのです。そして真のメッセージは、反応を引き起こさせるのです。

 使徒行伝を読み進めると、パウロはこれからも、ユダヤ人が福音を拒むことによって異邦人に福音を伝える。という方法を取りつづけます。福音は、もともとイスラエルの民のものでしたが、神さまの不思議なご計画のなかで、異邦人へと伝わっていきます。
 使徒行伝13章47-49節を読みます。

13:47 主はわたしたちに、こう命じておられる、/『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。
13:48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。
13:49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。

 異邦人たちは、福音を聞いて《主の御言をほめたたえてやまなかった。》とあります。これまでは、アブラハムを始祖とするイスラエルの民の信仰だった創造主なる神さまが、イエス様の福音によって、異邦人も救いの対象となりました。続けて《永遠の命にあずかるように定められていた》とあります。異邦人である現代の私たちがイエス様を信じることができるのは、私たちの願いや努力によるのではなく、神さまご自身が私たちに救いを用意してくださったからです。
 使徒行伝13章50-51節を読みます。

13:50 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。
13:51 ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。

 51節の《足のちりを払い落して》という行為ですが、「私たちには責任がない。」ということです。マタイによる福音書10章14節やマルコによる福音書6章11節、ルカによる福音書9章5節に書かれています。使徒行伝と同じ著者のルカよる福音書9章5節を見てみましょう。

9:5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。

 福音を伝えないうちは、伝えないほうに責任があります。パウロはコリント人への第一の手紙9章16節で、

9:16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。

と言っています。

 この言葉から分かるのは、パウロにとって福音とは「伝えるべき使命」であり、「ただ伝えてもよいもの」ではなく「どうしても伝えずにはいられないもの」だったということです。
 つまり、福音を受けた者は、それを自分の内にとどめておくだけではなく、自然と他の人にも分かち合うべきものだとされているのです。私たちは今、それにどう応えているでしょうか。
 よく考えてみてください。私たちの命は、神さまから与えられたものです。
 そして、もし私たちが「救い主であるイエス様」を信じているなら、ご聖霊が私たちの心に語りかけ、何をするべきか、どのように生きるべきかを教えてくださるのです。
 使徒行伝13章52節を読みます。

13:52 弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。

 イエス様の福音を受け入れた人たちは、心の中に喜びがあふれ、ご聖霊の力に満たされていきました。
 私たちも、そのような福音を神さまから託されています。
 この福音には、悲しんでいる人に喜びを、不安や恐れを抱える人に平安を、希望を失っている人には新しい希望を届ける力があります。
 そして、弱さを感じている人にも、立ち上がる力を与えるのです。
 そう、弱き者が強められる福音を委ねられているのです。
 そんなすばらしい福音を、私たちは今、届ける使命をいただいているのです。

2025年5月11日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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