ショートメッセージ【パウロ_9】

使徒行伝14章19-28
(小アジアの伝道-石打ち)

1、石打から起き上がったパウロ
2、勧め
3、報告

 前回は、パウロとバルナバの第1次伝道旅行の中から、使徒行伝14章を通して彼らの活動とその中で直面した反応について学びました。
 イコニオムでは、多くの人が信じた一方で、反対する人々によって迫害が激しくなり、次の町へと移動せざるを得なくなります。しかしその中でも、福音を大胆に語り続け、奇跡やしるしを通して、神さまの働きが証しされていきました。
 次に移ったルステラでは、生まれつき足のきかない人が癒され、その奇跡を見た群衆が2人を「神々」と勘違いして拝もうとしました。パウロたちはすぐにそれを否定し、「わたしたちもあなたがたと同じ人間である」と叫び、天地を創られた唯一の神さまに立ち返るように語りかけました。
 この箇所を通して私たちは、「神さまの働きに用いられた人に栄光を帰してはならない」という大切な視点と、すべての恵みは神さまから来るという信仰の土台を改めて確認しました。

1、石打から起き上がったパウロ
 使徒行伝14章19節を読みます。

14:19 ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。

 アンテオケとイコニオムの福音反対派ユダヤ人は、ルステラまでパウロを追い、イコニオムでは失敗したパウロの石打ちをここで成功させます。しかし《死んでしまったと》思われたほど重傷を負ったパウロは、奇跡的に回復しました。

 パウロは、不意をついた石打ちを免れることはできませんでした。
 《あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れた》とあります。アンテオケやイコニオムの一部の過激なユダヤ人たちは、前回、見ましたルステラの《群衆を仲間に引き入れ》ています。
 パウロとバルナバを神々に担ぎ上げようとした多くの人たちです。神々に捧げものしようとしている者たちが、今度は石打ちに加わっています。おそらく、彼らが神々ではなく、「自分たちと変わらない普通の人間かぁ。」と思い、がっかりしたのだと考えられます。そこへ、ユダヤ人がそそのかして、逆に、とんでもない悪人であると決めつけたのでしょう。
 これが、当時の大衆の姿です。私たち人間の姿なのです。また、多神教を信じている人々の姿です。
 ここは、とても重要です。自分たちの神さまが、自分の言うとおりにならないと、それを打っても、壊しても、殺しても構わないと思います。自分が中心なのです。神は、自分の欲望を満たすための道具にしか過ぎなく、偶像を拝むことは、その行為で自己満足しているのです。これは古代の話しですが、現在の世界を、日本を見渡せば、神観、宗教観、思想観の違いで、大小の差はありますが同じような現象を見ることができます。
 他者も神さまが創造された尊い器だという認識がなければ争いは絶えないということでしょう。
 14章20節を読みます。

14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。

 この使徒行伝の著者ルカは医者だと言われています。そのルカは、パウロの石打ち後の出来事を、ニュース記事を読むアナウンサーのように淡々と書いています。この事は明らかなに神さまの守りがあった奇跡です。
 ここで、コリント人への第2の手紙4章8-10節を読みます。

4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

 パウロがコリントの教会の人たちに書いた手紙です。この手紙は、この石打ちに遭ってから14年後に書かれたと言われています。
 同じ、コリント人への第2の手紙の12章1-4節に、

12:1 わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。
12:2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
12:3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
12:4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

 と語っています。“聖書ハンドブック”の解説では、このことを示唆しており、パウロは石に打たれたとき、《第三の天》に引き上げられたという可能性があります。このように、神さまは、石打ちで殺されるような目に遭っても、パウロを守り、そればかりか、知らなかった啓示を与えてくださったことが分かります。
 (創世記1章1節に《はじめに神は天と地とを創造された。》とあります。ここでの「天」は複数形で、三つの「天」があるとされています。第一の天は鳥が飛ぶ空(創世記1章20節)、第二の天は星や月のある宇宙空間(創世記1章14-18節)、“第三の天”は神さまの御座とみ使いたちのいる霊的な世界です。)

 また、コリント人への第2の手紙12章7節には、

12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

 と、パウロは言っています。パウロの《一つのとげ》は、さまざまな資料では、目の病だと言われています。神さまを知ると、自分にある煩わしいモノも神さまが備えられたと解釈し、自分を不幸だと嘆きませんし、他者の責任だとしません。人間的なボジティブ・シンキングのような考え方ではなく、神さまからのモノだと捉えられるようになるのです。

2、勧め
 14章21-24節を読みます。

14:20b そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。
14:21 その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、
14:22 弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。
14:23 また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。
14:24 それから、ふたりはピシデヤを通過してパンフリヤにきたが、

 パウロとバルナバは、デルベというところでは、とくに迫害を受けなかったようです。
 このデルベで、テモテが信仰を持ちます。

 14章21節には、パウロの神さまの召しに従う揺るがぬ決意と信仰のゆえに恐れずに歩む姿が書かれています。そうなのです。パウロは今までの道を引き返しています。
 パウロはまた、迫害されるかもしれません。危険を冒してまで引き返しているのは、パウロの責任感や信じた人たちのことが心にありフォローの必要性を考えたからでしょう。そして、彼らのところに行き、彼ら自身も経験した、今でいうハラスメントや迫害を耐えるように勧め、励ましました。
 私たちには、いつもこの励ましが必要です。勧めが必要です。私たち独りでは、思うようにクリスチャン生活を歩むことができません。他のクリスチャンがいて、その人を、祈りと聖書の御言葉で励まし、勇気を共有し、主とともに歩むことを促しあうことが必要です。

 23節を見ますと、信じる者たちが出てきたら、すぐに教会形成を行ないました。信者は必ず教会が必要です。また、指導者である長老や牧師が必要です。

3、報告
 14章25-27節を読みます。

14:25 ペルガで御言を語った後、アタリヤにくだり、
14:26 そこから舟でアンテオケに帰った。彼らが今なし終った働きのために、神の祝福を受けて送り出されたのは、このアンテオケからであった。
14:27 彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。

 14章26節に、《神の祝福を受けて》とあります。著者ルカは、パウロとバルナバが迫害に遭い、命の危険にさらされながら、彼らが福音を語り、異邦人たちが救われたことを《神の祝福を受けて》と要約しているのです。つまり、彼らの宣教そのものも神さまの祝福なのです。

 14章27節では報告したことが簡潔に書かれています。
 報告はとても大切なことです。教会は、2人の会員でも100人、1000人の会員でもイエス様を大牧者とした組織です。宣教は、その教会と言う組織から遣わされていきます。そして、教会に戻ってくるときは、パウロやバルナバが行った《報告》が必要になります。
 神さまのお働きを、他の人たちに分かち合うのです。
 おおよそ、どこの教会も、このメッセージが終わって報告の時間がありますが、それは、とても大切です。自分は、神さまから何を教えられたか、励ましを受けたか、神さまが何をしてくださったか。など、神さまがしてくださったことを分かち合うことが主にある教会です。これが、アンテオケの教会が行なっていたことであり、教会が模範とすべきことです。

 パウロとバルナバの第1次宣教旅行と見てきましたが、迫害と苦しみの連続のように思われます。ですから、彼らに報告するときに、「私たちは、こんなひどい目に遭ったのだ。苦しかったのだ。」と言うことができたはずです。
 しかし、神さまがしてくださったことを語ることができました。彼らは無理してこんなことを言ったのではないと思います。

 神さまが共に居てくださったことを実感し、飾らずありのまま、《信仰の門を異邦人に開いて下さった》。つまり、「多くの異邦人を救ってくださった」と感じていたのです。これが、神さまの祝福の本質ではないかと思います。

 私たちが神さまのために行なうことよりも、神さまが私たちのためにしてくださったこと、また、してくださっていることを聖書が教えてくれています。ですから、私たちの生活も、神さまが自分のためにしてくださったことに目を留めなければいけません。そのときに、さまざまな苦労があるかもしれません。パウロやバルナバのように、妨げがあるかもしれません。しかし、神さまの恵みは、そのような否定的要素を乗り越える祝福と喜びを提供してくれます。そして、事実、神さまの御業が、あらゆる反対にあっても、確実に実現されていくのです。

2025年5月25日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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