ショートメッセージ【パウロ登場前の出来事④】

使徒行伝6章
(ステパノの殉教①)

1、ステパノたち奉仕者7名の選出
2、新たな迫害者の出現

1、ステパノたち奉仕者7名の選出
 使徒行伝6章1節を読みます。

6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。

 洋の東西、時代を問わず、人の集まるところに問題は生じます。ここでは、教会の中で苦情が起きてきました。しかし、これは、よい意味での問題です。《そのころ、弟子たちがふえてくるにつれて》と書かれています。エルサレムにある教会が、信仰者が増えて成長していく段階で起こった問題です。
 組織が拡大していくときや成長していく過程で必ず問題は発生します。初期の教会も例外ではありませんでした。ここで大切なのは、知恵をもってそれに対処することです。

 ここで起こっている問題は、ギリシャ語を使うユダヤ人が、自分たちの“やもめ”への配給が《おろそかにされがちだと》いうことで、ヘブル語を話すユダヤ人たちに苦情を申し立てていたことでした。

 当時のユダヤ人社会は、純粋にユダヤ人たちの文化だけを持っていたユダヤ人がいるわけではなく、ギリシャ文化を背景に持つユダヤ人がいました。
 世界史を思い出してほしいのですが、この300年ほど前に、マケドニア王国のアレキサンダー大王がペルシャ帝国を倒し、ヨーロッパと中東、アフリカ、そしてアジヤにまで及ぶギリシャ帝国を築きました。そのときにギリシャ文化は深く浸透し、その後、ローマ帝国がギリシャ帝国を倒した後も、その文化と言語は人々に広まっていました。
 今の英語のように、ギリシャ語がローマ帝国の支配地域の特に東側の共通語になっていたのです。

 そのギリシャ文化の影響を多く受けたユダヤ人と、そうでない“ヘブル文化”を背景にもつユダヤ人のグループがいました。そして、エルサレムの教会で、この2つの文化を持つユダヤ人の間に問題が生じたということです。
 同じユダヤ人でも、言葉も習慣も違う人々の集いですから、必ずしも、悪意の対立があったわけではありません。
 あと、もう一つ注目していただきたい点は、《日々の配給》とあります。ですから、ほぼ毎日、自主的に《やもめら》へ食事の世話をしていたことになります。ごく初期の教会の時代から、現代でいう福祉活動を行っていたといえます。
 使徒行伝6章2節を読みます。

6:2 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。

 使徒たちは人々を呼び集めます。使徒たちは、共同生活をしている多くのことについて世話をしていたようですが、《「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。》と言っています。つまり、この問題を解決するために、先ず、何を最優先にしなければならないかを考えたのです。

 彼らの役目でもっとも重要なことは、イエス様の言われたことを伝え、教えることでした。このことは、今の教会でも同じです。牧師、伝道師などの教役者は、神さまの御言葉を伝え教えることを最優先しなければなりません。また、教会も、礼拝と、祈りと、聖書を学ぶことを最も重要視しなければいけません。
 その他のことが大切ではない。ということでは決してありません。
 使徒たちは、ここで、何を優先させるのか。を考えなければいけなかったのです。優先順位が分かっている教会は、問題が起こったときにもすぐに対処することができます。

 教会は、クリスチャン(神の民)が教会において“霊的”(神さまとの関係性を高める)であるという事です。
 前にお伝えしたかもしれませんが、「霊的」とは「神さまと自分の関係」です。使徒たちは、そのことをイエス様にしっかり教えられていましたから、優先順位を決められたのです。
 使徒行伝6章3-4節を読みます。

6:3 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、
6:4 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。

 食卓で奉仕する人には、2つの条件がありました。
 一つは、ご聖霊に満たされていることです。食卓の配給に、知恵が必要だということは分かりますが、知恵がある前に、ご聖霊に満たされていなければいけない。ということです。難しいですね。
 教会の中で奉仕するには、神さまを求め、神さまに仕え、へりくだり、神さまを愛している人でなければならないのです。単に能力があるだけでは、教会で奉仕することはできません。
 次に、食卓で奉仕する人の条件は、評判が良いことです。教会の中だけではなく、社会の働きにおいても、非難されるところのない人が選ばれなければいけません。非難が全くない人などいませんが、腰が低く正直な人でなければ務まりません。

 《…わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。》
ここでは、御言葉のご用のほかに、祈りの仕事が加えられています。その祈りは、教会組織のこと、教会の外のこと、教会員の癒しや生活の祈りが考えられます。もう一つ重要なことは、御言葉の解き明かしには、祈りが必要です。祈りによって、ご聖霊から聖書の意味を教えて頂き、その受けたものを礼拝に集われた方々に伝えます。
 使徒行伝6章5-6節を読みます。

6:5 この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、
6:6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。

 選ばれた人たちは、全員ギリシャ名のようです。
 《ギリシヤ語を使うユダヤ人たち》から出た苦情に対処するためですから“なるほど”と思わされます。
 名前を数えると7人ですが、その選ばれた人のうち《ステパノ》は、《信仰と聖霊とに満ちた人》として最初に紹介されています。また《アンテオケの改宗者ニコラオ》は出身地が報告される唯一の人物です。
 著者ルカは、使徒行伝の次の主役となる《ステパノ》と、新しい舞台となる《アンテオケ》を導入するために書いたと考えられます。
 使徒たちは彼らのために祈り、《手を彼らの上においた》のです。この手をおいた行為を按手と言いますが、按手は、様々な目的をもって実施された旧約聖書以来の伝統です。
 ここでは新しい任務が、上から、神さまの賜物として与えられることを示す “しるし”だと考えられます 。

 5節の7人の職務が今日の教会に直結する“執事職”を指すとは言えません。これ以後(例えばステパノ殉教後)、“7人”を継承する手続きがないことからも“12人”の“使徒”同様、初代教会の1回限りの任務だった可能性が高いと考えられます。しかし、7人の選出は、《食卓のこと》(食卓の仕事)が《祈と御言のご用》(み言葉の仕事)のために必要な教会的奉仕であること、つまり、教会はこの仕事なしに、御言葉を教える機関としての役割と御言葉の宣教を確立出来ないことを教えています。
 使徒行伝6章7節を読みます。

6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。

 弟子たちが増えていきました。それは、神さまのお言葉の仕事に使徒たちが専念することができ、そのお言葉の宣教によってさらに弟子たちが増えていったからです。
 教会に人が増えていくことで問題が起こりましたが、その問題が次の成長へのステップとなっていきました。そして、《祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。》とありますが、おそらくサンヘドリン(当時のイスラエルの最高議会)が、迫害の決定を見合わせたからかもしれません。
 ガマリエルが、彼らから手を引くことを勧めたため、神殿で奉仕をする祭司たちは、比較的自由にイエス様を信じることができるようになったのかもしれません。
 さらに、《祭司たちも多数》、イエス様を主であると信じたのは、“エルサレム”における宣教が深まっていることがわかります。ユダヤ教会の指導者・管理者に福音が浸透していったからです。

2、新たな迫害者の出現
 使徒行伝6章8節を読みます。

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。

 ステパノは、他の使徒たちと同じように、《めざましい奇跡としるし》を行ないました。ステパノについての信仰的な紹介が、5節でもありました。
 5節では、《信仰と聖霊とに満ちた》とありました。ここでは、《恵みと力に満ち》とあります。そして、10節では、《知恵と御霊とで語っていた》とあります。“信仰”“聖霊”“恵み”“力”“知恵”“御霊”です。優れた神さまの器です。特に、ステパノは知恵に満たされていました。
 使徒行伝6章9節を読みます。

6:9 すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、

 《「リベルテン」》を辞典で調べますと「解放された奴隷、(奴隷の身分から解放された)自由民 (ユダヤ人開放奴隷やその子)」です。
 彼らとステパノは議論しました。彼らは、ギリシャ系のユダヤ人です。

 ヘブル系ユダヤ人には、すでに迫害の手をある程度、抑えていました。聖霊の働きにより、彼らの福音宣教を妨げることはできないことを知ったからです。しかし、今、ヘブル系ユダヤ人によってではなく、ギリシャ系ユダヤ人のステパノが《奇跡としるし》を行なっていますから、妬みからステパノに議論をふっかけたのです。
 新たに、ギリシャ系ユダヤ人が迫害しはじめました。
 使徒行伝6章10節を読みます。

6:10 彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。

 彼らは、ステパノを論破できませんでした。
 理由は、おそらく彼らは、ユダヤ教的な論理でステパノを言い負かそうとしたのでしょう。対して、ステパノは、神さまの知恵とご聖霊によって、語ったからです。なので、《知恵と御霊とで語っていた》と書かれているのです。神さまの御霊は、ご聖霊です。ご聖霊はイエス様を信じなければ、お働きになりません。ですから、彼らは、ステパノの御霊の知恵に語る言葉に、歯が立ちませんでした。

 私たちは当然、聖書や聖書周辺の知識は必要ですが、神さまへ知恵を求めなければいけません。御言葉をただ読み聞きするだけではなく、実行しなければ意味がありません。

2025年2月23日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正


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アンニーバレ・カラッチ 聖ステファノの石打ち – 1603-04

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