素直に読む【ヨハネの黙示録_22】

ヨハネの黙示録15章1-8節
「閉じられる聖所」

〈はじめに〉
 神さまは、有無を言わせずに、不信仰な者を“さばく”という方法ではなく、患難期に入っても、神さまのもとへ立ち戻る道があることを示し続けてくださいました。愛によって勝利することに注力し、ぶれることはありません。
 今回の15章では、その御心を示した後、最後の7つの鉢の災害に触れています。その内容については16 章からです。神さまはその前に、ヨハネに一つの幻を見させられます。どういうものか見ていきましょう。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録15章1節を読みます。

15:1 またわたしは、天に大いなる驚くべきほかのしるしを見た。七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである。

 ヨハネは、《天に大いなる驚くべき》《ほかのしるしを見》ます。ここで、あえてもう一つの《しるし》と表現しているのは、これまでの《しるし》も驚くべきものでしたが、最後の7つの災害がついに始まり、もはや誰にも止められないことがはっきり示されているからです。
 次に、ヨハネの黙示録15章2-4節を読みます。

15:2 またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。
15:3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。
15:4 主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。

 15章2節の《ガラスの海のそば》とはどこでしょうか。
 ヨハネの黙示録4章6節では、御座の前が《ガラスの海》のような場所と言われていました。
 そこには、一切の汚れがない様子が描かれていて、ヨハネは、キリストによって罪の汚れを取り除かれた者だけが、ここに招かれると考えました。
 今回の箇所では、獣とその像、そしてその名の数字に打ち勝った人々が、この海のそば、つまり神の御座のすぐ近くに立っていたということなのでしょう。

 4章とは異なり、ガラスの海には火が混じっています。この火が“さばき”を表していると考えると、最後の“さばき”で罪がないと認められた者だけが、このガラスの海のような場所に招き入れられるということなのでしょう。

 患難期を通して信じた信仰者たちは、滅ぼされる人々に対して始められる7つの鉢の災害を受けることなく、患難により信仰が練られた者として、神さまを賛美し、モーセと子羊の歌を歌っているのです。

 15章3節の《モーセの歌》と言われているのは、出エジプトにおいて、紅海を渡り、エジプトに対する完全な勝利を見せてくださった神さまに対して歌われた、出エジプト記15章の歌のことではないかと思われます。そして、《小羊の歌》は、黙示録の5章で、無数の御使いたちの歌として記されている歌ということでしょう。
 この2つの歌は、つながっています。モーセの導きによって、罪の世界であったエジプトからの救いが、型であって、その完成図が、サタンが支配する罪の世から、子羊によって真の救いをいただき、その恵みに感謝して神さまの栄光をたたえる歌につながっているのです。

 この幻が示しているのは、患難を通して、まことの信仰者となった者たちが、最後の災い=7つの鉢の神の怒りを受けないように神さまの御座近くに引き上げられ、心からの賛美を歌って、主なる神さまの勝利をたたえる光景なのです。
 ヨハネの黙示録15章5-8節を読みます。

15:5 その後、わたしが見ていると、天にある、あかしの幕屋の聖所が開かれ、
15:6 その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸にしめて、出てきた。
15:7 そして、四つの生き物の一つが、世々限りなく生きておられる神の激しい怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使に渡した。
15:8 すると、聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ、七人の御使の七つの災害が終ってしまうまでは、だれも聖所にはいることができなかった。

 最後の審判の準備が整いました。そこで、ヨハネは次の光景を目にします。
 それは、天の《あかしの幕屋》(地上にあった《あかしの幕屋》は、エジプトを出たイスラエルの民の礼拝所の幕屋の名称であり、出エジプト記38章21節等に記されています)の聖所から 7 人の御使いが出てきたという光景でした。
 15章6節の7人の御使いは、各々一つずつ、災害を携えていました。災害の指令書といったところでしょう。また、15章8節で、神さまの激しい怒りの満ちた金の鉢を渡されます。15章6節で、この7人の御使いたちは、《汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、》《金の帯を胸にしめて》いたと言います。これは、神さまの権威を受けていることを示していると思われます。それを裏付けるかのように、15章8節で《聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ》ます。
 それによって7つの災害が終わるまで聖所は、閉じられました。それまでは、赦しを求めてくる者たちのために開かれていたのです。これまでの忍耐を重ねられた、神さまの愛とあわれみも、この時、閉じられて、この災害が終わるまで誰も入ることができなくなりました。

 ここには、神さまの完全なる義の“さばき”をなさるお姿が描かれています
 私たちは、よく、「まだまだ」とか、「何とかなる」と神さまに対する罪を甘く見がちです。しかし、あわれみも、救いのチャンスも閉じられる時がくることを知っていなければなりません。神さまだけを信頼して、そこから動かない信仰を確立する必要を教えられています。

〈まとめ〉
 神さまは、聖所を閉じ、救いが止む光景を目に焼き付けさせて、信仰によってすべてを受けとめるように導かれています。7つの鉢による災害は、神さまの激しい怒りが頂点に達する恐ろしいものだと言われています。
 イエス様はここまで何とかして1人でも救いたいと、どこまでも頑なな人に寄りそわれる深いお心とその愛を示されてきました。

 この最後の災いを前にして、サタンの支配する世と罪に打ち勝った信仰者は、神さまの御座のそばに立つことが許されて、喜びの声を上げることができ、この最後の恐ろしい災いを受けずに逃れられることが明らかにされています。尚、今信仰にある人たちは、最後の災いだけではなく、すべての患難が始まるその前に、イエス様とともに天にあげられて、すべての患難から守られるのです。これが信仰による勝利です。
 このように、聖書に書かれていても、信じる私たちの心は弱く、勝利者と言えないような敗北感に覆われる時があります。そして不信と疑いと誘惑にさらされ、揺り動かされます。だからこそ信じる私たちは、聖所が閉じられて救いが止む光景を目に焼き付けて、信仰によって与えられた神さまからの恵みをいつも心の奥の霊で賛美するようにと教えらえているのです。

 どんな苦しみがあっても、信仰を守る者には、サタンの攻撃からも、最後の神さまの怒りの“さばき”から守られて、神さまを賛美することができるのです。
 聖所が閉じられて救いが止む時が必ずくるのだから、賛美できることを励ましとして、信仰の歩みをするようにと信仰者のゴールを見せてくださっているのです。

 信仰に関しては、この世でありがちな曖昧でどっちつかず、“まあまあ”といった、そのような選択肢は、どこまで行っても、黙示録にある最後の時でも存在しません。
 イエス様は、すべての人が救われるように“さばき”を先延ばしにしておられます。だからこそ、自らその救いの御手をつかむことをおすすめします。そして、神さまに心から賛美をささげる恵みにあずかることを心より願います。

2025年3月21日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_22】
タイトル:「閉じられる聖所」
牧師:香川尚徳